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ボディ・サトヴァ(bodhi sattva)     常しえに蒼き澄むブルーと木と人と    


       






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 第一章        六坊町のバス停
 第二章        ホワイトハウス
 第三章        紅葉の葉
 第四章        黒田辰秋の永遠
 第五章        チェシャ猫の秘密
 第六章        ボレロ
 第七章        梅太郎の手紙
 第八章        花火の消える
 第九章        東山魁夷の優美
 第十章        アナリサ
 第十一章       静雨の海
 第十二章       彩道  


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第一章   六坊町のバス停




或る時、私は恋をしていた。
あの熱い熱で溶けてしまいそうな記憶は、細かく裁断され小さなピースとなり哀しく輝きながらも散らばると、今では冷たく氷の結晶に閉じ込められ、そこに手を伸ばせば、すぐに触れられる錯覚を覚えるのに決して手にその肌の体温を感じることはない。
もうあの温もりを感じることさえできないのだ。





 バニラのような楽園の甘い風が鼻先を通り抜けた。
 夏空はどこまでも高く、白い入道雲は遥に昇り人間の小さきを諭している。
 誘われるまま見上げれば、その先の空は、こんな薄ら汚れた自分であっても受け入れてくれる純青であった。
 夏空の高みから熱く灼けたアスファルト道路へと視線を下ろした時、一台の路線バスが停留所に辿り着いた。
 立ち尽くしていた歩みを再び始め、行き先も知らないバスに飛び乗ると絞り出すように息を吐き出して日常にサヨナラを告げた。
「ふう・・・」
 それまでは全くの無表情でいたのだが、ここでささやかな笑みを咲かせても周りの人は誰も気付かない。自由というか、こんなに気楽な気分になれたのは久しぶりだ。
 見慣れた市川駅の光景が遠ざかって行く。
 今日は普通に帰宅する道を歩かず、バスの車窓から見知らぬ街並みの景色を眺める小さな冒険を選んだのだ。




 何故こんな突飛な行動を取ったのか、窓ガラスに額をもたれ、しばらく考えてみた。
 定時にバイトを終え、いつも通りに新宿駅へ黙々と歩くと南口に続く一本道に何やら人だかりができていた。
 歩道から溢れていたのは若い人達の楽しげな行列だ。
 一体何を目的とする行列なのか、立ち並ぶ店が多過ぎて皆目見当が付かなかったが、彼等は一様に笑ったり大きな声で話したり、肌を焦がす紫外線を浴びながら、並び立つ行為それ自体を楽しんでいるように見えた。
 行列を避けるようにその横を足早にすり抜け彼等と違う方向に目をやり、つまり他人の愉しさから目を背けその場所から逃げた。
 一瞬でも目が合えば、羨ましくなりそうで怖かった。
 だから、私はここにはいない、異次元で起きているものには関心など持ちたくないし、あたかも目前の光景などここに存在していないのだと自分に言い聞かせ何も映らぬ虚な目をして駅を目指した。
 こうして自分にとって都合の悪い物事から目を背け現実社会を拒否しても、確かに世の中のどこかには幸せな出来事や楽しい事が毎日起きている。 
 でもそれは私の日常には、まずやってこない。
 絶対に。
 私のその日常とは、パターン化された職場と家の往復のみで構築されているのだから。
 学生時代に親しかった友人は、仕事や家事や子育てに忙しくも充実した人生を送っているらしい。いつの間にか疎遠になった彼女達が、ウェディングドレスを着て美しくポージングする写真や、小さな子どもを抱いて幸せそうに笑う家族写真を、
SNSで見かける度にドーンと落ち込んでしまう。


 どうしてみんな、こんなに生きることが上手なんだろう?


 未だに正規の仕事に就けず、お金も結婚も彼氏さえ手に入れていない私はメインストリートではなくビルとビルの間の薄暗い路地を歩むような運勢を、生まれつき設定されているのだろうか?
 もう少し若い頃は抗う気力もあったが、最近はと言えば、もはや疑いなく与えられた運命を肯定的に捉えている。そう考えて諦めておいた方が惨めな思いをしなくて済むのだから。
 私は今夜これから食事を共にする友達などひとりもいない。
 お祭り騒ぎのような混雑した通りをバイト帰りのパンパンに張った足で引き摺り歩くには、なんだか辛い道のりだった。


 今は南口と西口の中間にある喫茶店で働いて半年程になる。
 華やかな新宿駅南口とソフィスティケートされた都庁との間にある小さな喫茶店は、言うなればちょっとした人工的な穴蔵のようで、私にはちょうど心地よい空間だ。都会の真ん中で静かな日々を淡々と過ごせる職場に不満などもちろん無い。
 だが今日はどういう訳か、人の熱気に心を乱された。

 ・・・淋しいのかな・・・?

 無闇に人の影響を受けないように開くことも少なくなったSNSの画面ではなく、仕事を終えた途端、ぼっちになってしまう現実の帰路に楽しそうなそれを見ると、心は逃げ道を失ったのかもしれない。
 いつまでも大人になりきれない小さな人間だから。
 窓ガラスに押しつけた額をそっと離し、右手で頬杖をついてみた。

 ・・・それとも、あの可憐な風露草の薄紫のせいかもしれない。

 バイト先の喫茶店と道を挟んだ向かいに小さな間口の花屋がある。
 店先に花を並べるでもなく、どうやら美しい花々を適正な温度に管理された店の奥にかくまっているような一風変わったその花屋に、たまに姿を見せるシックなスーツ姿の男性が今朝声を掛けてきたのだ。
 それは店の玄関先に出した木製イーゼルに本日のお勧めメニューを書いた黒板を載せている時だった。
「すみません、あの、ちょっといいでしょうか?」
 目立つタイプではないけれど、時折見かける端正な面立ちは、私の記憶のひだにぼんやり残っていた。
「お仕事中にすみません。
 実はお茶席に活ける茶花をお師匠から頼まれて、この風露草を注文したのですが、少し多くて。
 お茶席で使うのは、ほんの一輪か二輪で充分でして。
 しかし、仕入れてくれた花屋に言い辛い感がありますし。
 それで、もしよろしければ余る花をそちらのお店で飾っては頂けないでしょうか?」
「え? そのお花をですか?」
 あまりに唐突なその男性の申し出に返答を詰まらせたが、彼は半ば強引に続けた。
「あなたに貰って頂ければそれでいいんです」
 そして2〜3本の風露草を花束の包みから引き抜くと、胸元から漆黒のポケットチーフを取り出して薄紫をくるりと束ねた。
「僕はこれだけあれば良いので、あとは使って下さい」
 彼から手渡された風露草とやらを抱えてぼうっとしていると、その男性は優しく微笑み、一礼をして立ち去った。
「なんだったんだろ? お茶席? お師匠さん?」
 聞き慣れない日本語を耳にして理解に苦しみはしたものの折角貰った花束をそのままにしておけず、店の奥の棚にあった水差しに活けると、ひらひら可憐な薄紫の花弁が優しく語りかけてくるような気がした。
「もらってくれてありがとう」
 そんな言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか、心がぽわんと暖かくなった。



 胸に風穴を開けるような寂しさと、何かに包まれるような愛しさが混在した日。
 いつもと違う1日を消化しなければいけないが、普通に今夜を迎え明日の朝また目覚めるために大人しく眠ることができるだろうか?
 こんな寂しい私という人間に花束をくれる人がいた・・・。
 昨日までと違う思いがけない出来事が、凝り固まった日常から自己を解放してくれたのか、本来備わっていた感性を、いや野生を復活させてくれたのかもしれないのに世間は変わらず私を見捨てて楽しそうに回っている。その輪の中に入り一緒に盛り上がりたいが相変わらずひとりぼっち。世間と共通するサブジェクトの乏しい私は楽しげな人達の輪には入っていけない。
 いつもならそこで諦めトボトボと自室へ向かうのだが、今日は違った。
 風露草が、ありがとうと言ってくれたのだ。
 その言葉が諦めてばかりじゃいけないと背中を押してくれる。
 もう若くはないが、まだ私を求めてくれる何かが何処かにあるかもしれない。
 人生はもう終わったもの、既に結果が出たものと諦めず飽きもせず求めて行けば、何かが誰かがその先に待っているかもしれないじゃない。
 これはまるで人工呼吸器を取り外し自力呼吸法に戻れたような感覚だ。
 電車を降りて地面に降り立った途端、まさかこんなに自由になれるなんて!
 遠い過去に置き去りにされた少女時代の好奇心と、どこまでも行ける勇気を、今この体に取り戻したのだから、このまま自宅直行などできないわ。
 日常の凪の中で不意に本来の自分を取り戻せたのだ。
 全ては心の赴くまま、永遠に続く『今』という時が始まった。
 但し目的など無い。
 丁度、駅前停留所に停まっていたバスに乗り込み、あてのない日帰り旅行を始めてみようと思う。
 目的など、それから見つければいい。



 午後4時を過ぎたバスの乗客は、まばらだった。
 帰宅ラッシュが始まる前の隙間時間の座席群は、かなり余裕がある。
 黒いリボンを結んだ大きめカゴバッグを膝に載せていたが、そんな必要も無さそうだ。ゆっくりと足を組み隣の座席にバッグを置き直した。
 車内を見渡すと、髪も肌も眩いばかりの光を纏った女子高生達が時折会話をしていたが、1人、2人とその輝く瞳はスマホの画面に視線を下ろし、睫毛の影に夕日を隠した。
 今とは時代が違うが私にも、ああいう時があった。
 あれから30年も生きているのか・・・。
 ふとバスの座席の自分の膝に目を移した。
 もうすっかり大人になってしまったが、何が身に付き何が手元に残っているのだろう?
 お金を得る為に常識的な大人の振りをしなければならないが、肉体はとうに40歳を過ぎたと言うのに精神年齢は果たして肉体に追従しているのだろうかと、近頃の自身に思いを馳せてみた。
 これまでどれだけの転職やバイトを数こなしてきたのか、思い返そうとしたが、もはや数える気力も無い。そんな事はどうでもいい。
 好きな絵を描く為に必要な経費と生活費が稼げれば、それで良かった。


 明晃芸大を卒業して就職した会社はグラフィックを生業として、その中のホームページ作成部門に5ヶ月在籍した。そうだ、確か5ヶ月くらい。
「もう辞めるの?早いね。何か問題でもあったのか?」
 特に引き止める様子でもない当時の上司は、受け取った退職願を一旦机の上に置き、メガネをちょっと持ち上げた。
 「いえ、問題は・・・無いです。ただ絵描きになりたいだけです」
 名前も忘れたその上司はノーリアクションで確認した。
「ふーん、ウチで働きながらその絵描きさんとやらになれないの?」
「無理です。感性を、お金と成績に変えてしまうこの環境では無理だと判りました」
 途端にメガネの奥の眼球は鋭く形を変えた。
「そうですか? 気付かなかったが、つまり、我が社は君に何か無理を強いているのか?」
 語尾は強めだった。
「すみません、お世話になりました」
 つい正直になり過ぎてしまった。
 予想以上の不穏な空気をやばいと感じ、頭を下げた5秒程の間に上司は席を立ったようで、顔を上げるとそこにはもう居なかった。気を悪くしたのか、これ以上話をしても無駄たど解ったのか、それとも単に用事を思い出したのか、とにかくそれがあの上司との最後だった。
 無人の机にもう一度黙礼をして、その日私もそこから消えた。

 それから今までどこも長くは続かず次々とバイトを変え、ありとあらゆる仕事をしてきた。
 流石に風俗だけは経験してないが、ガソリンスタンド、葬儀屋、コンビニ、清掃業、電話セールスに苦情係、弁当屋、巫女、居酒屋、携帯のキャリア会社(これは1日でギブアップ)アパレル販売、引越し屋・・・後は思い出せない。
 枚挙にいとまがないとはこのことである。
 多種多様な仕事を転々としている内に、どの職場でも大なり小なり何かしら不平不満が転がっているものであり、それに気付かぬ鈍感を装えるのが大人であると、次第に悟ってきた。
 今になって思い返してみれば、最初の就職先の上司には随分と痛烈な事を言ってしまったものだと気恥ずかしい。おそらくは、彼も自らの信条を曲げて勤める毎日の無念を耐え忍びつつ仕事を追っていたのだろう。そこで入社したての女性社員に小生意気にも一突きされたのだから、さぞ不愉快だったに違いない。
 未熟な私は、向こう見ずな啖呵を切っていながらも、あれから長い年月が経っているというのに、まともに納得いく絵など一枚も描けてなかった。
 ・・・もはや、半分投げ出しているのかもしれないな。



 今は新宿の路地裏にある小さな喫茶店に勤めているが、まだ大人になりきれていないからか、ここもいつまで持つのか分からない。
 特に不満など無い職場だし、物静かな初老のマスターのもとで過ごす日々は、馴染みの常連客と多分同じくらい居心地の良い空間なのに、これまでの自分の仕事運の薄さや転職癖が、いつかきっと邪魔をすると予感していた。
 だが今回は今までと違い、人には恵まれている。
 バイト仲間のこうき君は熊本から上京した役者を目指す努力家で人当たりも良い青年だ。
 もう1人のバイトのほゆちゃんは、私と交代するシフトだからあまり長く接する機会は無いが、明るくて素直な女子大生。
 あと、たまに忙しい時に来てくれるゆうかちゃんは会社に内緒でバイトに入っているから土日の午後短時間だけ一緒になる。彼女は今時珍しく気遣いのできる良い子なのだ。
 昭和の時代から喫茶店を経営しているマスターが自慢の手料理を振る舞い、その時々の流行に合わせたラテやフラペチーノやスイーツも勉強してメニューに取り入れている。厨房はマスターに任せて客の注文を取り、店の飾り付けや片付けをするだけの恵まれた職場環境に不満を口にする者など誰一人いない。
 ただ私だけが一回り以上年上なのが気になり、というか気が引けてしまい、マスターに不安を漏らしたことがあったっけ。

 小さな暖色のシーリングライトの下、ウエッジウッドのティーカップをクロスで丁寧に磨いていた手が止まると、白髪混じりの髭を蓄えた口角が穏やかに上がり、それは思い違いだと諭してくれた。
「あのねえ、違う、違う。違うんだよ。
 僕はね、玲緒奈さんがいてくれるから安心してるんだよ。
 うん、助かってる。
 玲緒奈さん、絵が上手いしね。メニューボード任せられるし。
 それに僕もね、あまり若い人達だけだと話が合わない時もあるからさ、少しでも世代が近い人がいてくれると、なんて言うかなあ、落ち着くんだよね」
 ここは私の存在をあるがままに受け入れてくれる。
 今までの職場ではなかったことだ。
 そう言って紅茶を淹れてくれたマスターの優しさが身体中に沁み入るようで、とても嬉しくて。
 ワイルドストロベリーの白磁に熱いお茶がなみなみと注がれるとティーカップを持つ手に丁度良い温かさが伝わった。
 安心できる時間がこの場所にはある。
 ただ最近、そんなマスターのオーダーミスが増えているのが小さな気がかりだった。


 どれくらいこのバスに乗っていたのだろうか。
 ふと腕時計を見ると当に5時を過ぎていた。
 時間の経過につれバスの窓から見える風景は違う表情へと変化しているようだ。
 背の高い建物は姿を消し、民家やこじんまりとした事務所が隙間無く並ぶ光景が流れる。
 随分と郊外に来た様子である。
 市川駅から一緒にバスに乗り込んだ年配の女性は降りる準備をしているようだ。
 家電でも買ったのか、大きな段ボール箱の持ち手をしっかりと握り席を立った。
 その乗客が降りるとバスの中には私だけが取り残された。
 一体このバスの終点がどこなのか知らないが、そろそろ潮時だと『六坊町』という名称の停留所で、ささやかな夕刻のバス旅行に終わりを告げた。


 初めて降り立つ六坊町は静かだった。
 何の変哲も無いバス通りを歩いて行くと、白いペンキが消えかけた小さな横断歩道に出会った。
 交差点ということだ。
 このまま真っ直ぐ素直に進むか、右に曲がるか左へ行くか、但し後戻りする選択肢はもはや無かった。
 くるくると辺りを見回せば、左に緩やかなカーブが続いてる。
 そのカーブの道の両脇には街路樹が程良い間隔を保ち植栽され、光の強さはその方角が西であると物語っている。
 この道を行ってみようかな?
 もう少し時が過ぎたら夏の夕焼けが見えるかもしれない。
 その道の先に、いつか忘れ去られた『期待』という錆びついたものがあるような不思議な感覚を持てた。
 パタパタ歩き続け街路樹を抜けると、道端には雑草が群を連ね、名前は知らないが船橋の実家付近で昔よく見かけた草達がたくさん自生していた。
 猫じゃらしのようなフッサフサが付いた雑草や、よくよく見ると伸びた葉先に白く小さな花が揺れる背の高い草は、どれも懐かしさを通り越して新種の植物に見える。思い返せば、もう何年もこんな背丈の高い雑草が茂る道を歩いてなかった。
 一軒の民家の際に白い百合の花が十輪と言わず咲いている。
 それぞれの成長に合わせ、あっちを向いたりこっちを向いたりする百合の群れはジャズを奏でるトランペッターのグループが演奏しているみたいだ。そんな彼等にしばらく目を奪われると、遠い記憶の底に沈んでいた黒田清輝の青白く輝く美しき『鉄砲ゆり』が頭に浮かんだ。
 高校の美術の時間に画集で見た清楚な白百合の花々に魅入られ、いつか本物の絵を見たいと願っていたが所蔵されている福岡県久留米市の石橋美術館まで行く余裕が無いまま月日だけが経っていた。
 遠い記憶を通り抜け、地面に下ろした視線を上げると右手前方に白壁が現れた。
 わあ、まだこういう家ってあるんだ。昔の武家屋敷みたい。
 突然現れた旧時代の白壁は延々と続いていく。
 それはつまり、この屋敷が普通よりかなり広い敷地だということである。
 30メートル以上続いたと思われる白壁が途切れた先に、古めかしい瓦屋根の付いた網目の木の門が誂えられていた。これはきっと格子戸というのだろう。
 こんな時代がかった、しかも格調高い格子戸はテレビか映画でしか見たことない。
 よく見ると、その格子戸の端っこに毛筆で何か書かれた細長い紙が貼り付けてある。

  [ 入居者募集 家賃一万円 敷金礼金不要   斎藤 ]

 不動産屋の社名も無く、その先は大家であろう斎藤さんの携帯番号が続いていた。
 家賃一万円? 敷金礼金不要ってマジで?
 まさか・・・事故物件?
 これなんかやばくない?
 この家は平屋であるが敷地はかなり広そうだし百坪住宅と言っていい位の面積がありそうだ。平屋というのが実はこんなに贅沢な土地の使い方をしている建築物とは知らなかった。確かに古い物件だが、それにしても市川で家賃一万円の借家は、そうそうお目にかかれない。絶対に、と言っていい。
 自分の小さなアパートはというと、玄関を入ればすぐに靴箱と小さなキッチンが並び、続くワンルームの部屋にはシングルベッドの横に一応のテーブルと収納を兼ねたベンチチェストが縦長の空間で川の字を書くように並んでる。
 体はその川の字の隙間を、足をぶつけないよう気を付けて移動するのみ。
 そんな歩き方にも手狭なユニットバスにも慣れてきたが、ベランダに置くしかない洗濯機には閉口していた。冬場の外洗濯は寒いから嫌だし、夏場の強い日差しは洗濯機表面を経年劣化させる。まだ普通に動いて使えるけど、見た目かなり汚くなった。
 しかし、そんな不都合があれども自分だけのお城に気兼ねなく住めるのは幸いだ。ベッドの下に積み重ねた画材道具の、ちょっとツンとした匂いに包まれて眠りにつける至福の生活でもあるから。
 でも、でもね、家賃は管理費含めて95,000円。
 この現実だけは正直痛い。バイトをしてなんとか毎月払っているが、その家賃分を食費と絵の道具代に充てられれば、もっと幸せなのに。
 大学入学を機に自由を得るため船橋の実家を出て急遽借りた部屋に住み続け30年程経っただろうか、ほんの仮住まいのつもりが随分と長い独り住まいとなってしまった。
 もちろん過去何度か引越しを考えたが、定職に就いてないが故に入居を断られ、度重なる契約更新を結ぶ度に、次こそはと新築物件に住まう夢を膨らませているが一度も実現しないまま現在に至る。

 これ、マジでいいかも。
 ちょっと、いやかなり古いがこの広さでこの家賃ならばと、後先を考えず苗字しか知らない大家さんに電話をかけたみた。
 が、出ない。
 じゃ、しょうがないな、縁が無いんだ。
 期待外れに終わってしまった電話の相手だが、このまま諦めて帰るのは何となく勿体無い気がして、この家の周囲を歩いてみた。


 格子戸の奥には、広々とした庭があるようだ。
 その証拠に大きく成長した木々の枝が白壁に迫り、そのうちの何本かは身を乗り出すように道路へ頭を出して、ゆさゆさと風に揺られてる。
 素敵だなあ、ここ。
 しんなりとした風が、ふわあり漂いながら体内に入ってきた。
 すると、日々見慣れた常なる物のひとつもないバス通りの街に建つこの広い家にどんな人が暮らしているのか知りたくなったというか、勝手な想像がどんどん膨らみ足は地面にくっついた。
 すっと頭に浮かんだのは、上品なお母さんと2人の少女の姿だ。
 小花プリントの木綿のブラウスにジャンパースカートを着てレースの付いた白い靴下を履き、元気に駆け回る小さな姉妹。
 お父さんは出張がちで、珍しいお菓子や旅先で買ったお人形を娘達へのお土産に持って帰る。
 リボンをほどいて喜ぶ娘達のまんまるい瞳の輝きを、優しく慈しむお母さん。
 家族が揃った日曜は、朝食後の新聞に目を通すお父さんと洗濯物を干すお母さんを待ちながら、お庭のブランコで遊んで、それから4人で楽しいお出掛け。
 行き先はデパートのおもちゃ売り場か動物園や遊園地。
 お昼はレストランで国旗の付いたお子様ランチを注文する。
 つまり、この想像は私の理想の人生だった。
 生まれつき得る事ができなかったから理想であり、これからも自ら掴み取ることができそうにないから理想。
 現実には起こり得ないそんな儚い夢想を一瞬でも体感できたこの家に無性に絶ち難い未練が沸き起こった。
 ひょっとしたら斉藤さんから電話がかかってくるかもしれない。留守番電話にメッセージは残さなかったが、着信記録は残る。
 ほんの少しだけ淡い期待を抱き、さっき降り立った六坊町のバス停に向かい帰路に付いた。
 振り向けば、白壁の西の空に昇る入道雲のてっぺんがピンクに染まり、そろそろ夕焼けが濃くなりそうだ。
 またこのサンセットを見ることができれば・・・。


 六坊町から帰ったその日の夜、斉藤さんから電話があった。
「もしもし、あの私、斎藤と申しますが、先程お電話頂いたようで折り返しご連絡差し上げたのですが、お間違いないでしょうか?」
 あまり歳をとった声ではないが丁寧で上品な語り口だ。
「あ、はい、しました、電話・・・」
 早めにシャワーを浴び、くつろいでいたまったり感が一気に吹き飛んだ。
「そうですか。それで、どういったご用件でしょうか?」
「すみません、六坊町の一軒家の件で。あの、家賃1万円って本当ですか?」
「はい、そうですが」
「で、あの、大家さんですか?」
「はい、そうですけど、入居のご希望のお話ですか?」
「はい。それで、ちょっとお尋ねしたいんですけど、何かあるんですか? 
 仲介業者もなくて家賃1万の理由とか」
 思ったままを正直に言った後(もう仕方ないのだが)失礼な質問をしてしまったと焦ると、斎藤さんは口調を変えず淡々と答えてくれた。
「あの、大変申し訳ございませんが、六坊町の物件はこちらで入居者を選定させて頂きます。不動産業者が入るとなかなか断り辛い面がありますから私が直接管理しています。
 とりあえず一度お会いして中をお見せしましょう。
 今度の日曜はいかがですか?」
「え?あの、私、日曜バイトなので他の日はダメですか?」
「そうですか。
 実は私は転勤して今は山梨にいます。
 今度の土曜に六坊町の家に帰ろうと思いますが、そうですね、それでは土曜の夜にお会いしましょう」
 ・・・見ず知らずの名前しか知らない男と二人っきりで週末の夜、一つ屋根の下で会ってもいいのだろうか?
 声の感じは安心できそうな雰囲気だが、こうして女を誘い悪い事をするために『家賃一万』の餌にかかる獲物を手ぐすね引いて待ち構えてるのかもしれない。
 急な提案に動揺して、あっという間にとんでもない想像と躊躇に襲われた。
 が、ちょっと待って。
 よくよく考えてみれば入居希望者は若い女とは限らない。私だって若くないし。
 すると次に、正反対の思考がカタカタと音を鳴らし回路を組み立て直した。
 お年寄りや、高い家賃を払えない事情のある人や、不倫相手と隠れ家の如きセカンドハウスを持ちたい人とか、ありとあらゆる事情を抱えた人間を相手にこの大家はたったひとりで交渉しているのかもしれない。
 格安物件という或る意味かなり危ない話を処理するとは、よほど彼の方が危険を顧みない挑戦というか苦労をしているのではないだろうか?
 心配するほど悪い人間じゃないかもしれない。
「は、・・・はい」
 結局性善説に傾き、言われるまま土曜の夜、あの家で斎藤さんと会う約束をしてしまった。



「ねえ、初めて会う人の家にお邪魔するってアリかなあ?
 しかも二人っきりで」
「えー? なんですか? それって、男性ですか? 女性?」
「うーん、一応男性なんだけどね」
「玲緒奈さん、マッチングアプリでも始めたんですか?」
「違うよ、ゆうかちゃん。
 不動産とか、そういうの。事務的な感じで」
「私、よくわかんないですけど。
 ま、気をつけて下さいね。世の中には変な人もいますから」
 約束の当日、やはり不安になりカウンター横でゆうかちゃんに相談してみた。
 土曜は会社が休みで彼女はバイトに来る日だ。
 まともに取り合う様でもなく、ランチのグループ客が帰った後のテーブルをそそくさと片付ける手際の良さを見て、しかしまあ余りに幼い相談事だったと我ながら苦笑し布巾を持って手伝った。
 所々水滴が残るテーブルを拭き上げると、ゆうかちゃんは周りを見渡し誰もいないと確かめると小声で話しかけた。
「それと、あの、こんなこと言っていいのかよくわかんないんですけど。
 いいのかあ? 言っても・・・」
「何? いいよ、言ってみて」
「玲緒奈さん、近頃のマスターって、なんかおかしくないですか?
 やたらオーダーミス多いし・・・。
 この前とかカプチーノお願いしたら『それ何でしたっけ?』って言われたんですよね。カプチーノですよ、マスターこだわりの。
 まさか冗談でしょって思って待ってたら、冷蔵庫から牛乳出してそのままコップに注いでお客さんに出そうとしてたから、私もう慌てましたよ」
「それマジで?」
「はい」
「それやばくない?」
「めちゃやばいと思います。
 アイスミルクっていうか単に牛乳です」
「だよね、大丈夫かなあ? マスター」
「玲緒奈さんはマスターの変な様子に気付いたりしてないですか?
 ちょっと今までと違うような雰囲気とか」
「あー、そうね、そう言われればあるかも」
「どんなことですか?」
「最近よくお釣り間違えてる。
 それと、料理の味が変わったって常連さんがぼやいてたり、お鍋も時々焦がして危ないのよ」
 2人で顔を見合わせた。
「認知症、ですか?」
「それはないよ、ゆうかちゃん」
「でもマスターって歳いくつか玲緒奈さん知ってます?」 
 厨房の奥でアップルパイの仕込みをしているマスターの白髪を見つめた。
「確か、70歳は超えてたかな」
 シナモンの香りが漂ってくる。
 ゆうかちゃんは急に黙り込みトレイに載せた食器を洗い場に運んだ。
 美しく整え直されたテーブル脇の出窓には、あの風露草の花が午後の光を浴びている。
 不思議な男性から頂いた花束を、あの日、水差しに無造作に活けて奥に置いていたのだが、優しいマスターのことだ、きっと放っておけず陽の当たる場所に飾ってくれたのだろう。
 楚々とした優しい紫は、この店の窓にしっくりと似合っていた。







第二章   ホワイトハウス



 夕方、ゆうかちゃんに頼んで早めにバイトを上がり、いつもと同じく新宿駅から山手線を使い秋葉原で降りた。
 人混みを掻い潜り慣れたルートで総武線に乗り換え市川駅に着くと、ここからはいつもと違う。
 今日は直行でアパートに帰る道ではなく反対方向へと進み、例の家に向かうバスに乗り込むのだ。
 2度目となる光景を窓からぼんやり眺めていると、やがて六坊町のバス停に到着した。
 バスを降りて歩いて行くと西の夕焼け空の下、あの並木道は薄曇りに木立が映え、その4、5本を過ぎた折に、晴れ間が突然雲に隠れると雨がポツポツ落ちてきた。
 雨足は徐々に強くなる。
 夕立だ!
 傘を持っていなかった。
 容赦無く降り続く雨の中、小走りであの白壁を目指した。
 あった。
 確かここだ。
 良かった、屋根付きの格子戸で。
 小さな屋根の下に急いで滑り込み、バッグからハンカチを取り出して濡れた髪を手早く拭いた。
 隙間からそっと中の様子を伺うと
「よかったね、そこに屋根があって」
 どこからか男の声がした。
 電話で話した大家さんよりも随分と歳をとったような声だが。
「斎藤さんですか?」
 キョロキョロと辺りを見回し斎藤と思しき人物を探してみた。
 だが、人の気配は無かった。
「斎藤さん?」
 もう一度声をかけてみても返事は無い。
 誰かどこかに隠れているのだろうか?
 それとも通りすがりのお節介な近所の人の声だったのだろうか?
 或いは空耳かもしれない。
 しげしげと周辺を調べると格子戸の脇にインターホンが備え付けてあった。
 ここから聞こえたのかも。
 とりあえず常識的にインターホンを押してみた。
「ピンポーン、ピンポーン」
 うるさい2度鳴りタイプだ。
 緊張しながらしばらく応答を待った。
 しかし、一向に返事が無い。
 感じ悪い。
 約束していた初対面の相手にすっぽかされる事ほど不愉快なものはない。
 バカにされたように感じ、この家に背を向けて帰ろうと決めた時、さっきの男の声がまた聞こえた。
「斎藤さんはもうすぐ帰ってくるよ。
 まだ雨が降っておるのだから、しばらくそこで待ってみてはどうかね?」
「誰? あ、いえ、どなたですか?」
「・・・」
「私は斎藤さんと今日ここで会う約束をしている山口と言います」
「・・・」
「どなたかいらっしゃるんですか?」
 急な夕立は止む気配を見せ、空を覆っていた厚い雲の隙間からぽっかりと太陽の光が覗いた。
「我が名はルーズベルト。
 君は私とお喋りができるのかい?」
 突如のレスポンスに驚き、言葉を詰まらせ息を飲んだ。
 ・・・外人だったのか。
 それにしてもどこにいるのだろう? 日本語はかなり流暢だが。
「あのー、ルーズベルトさん、どこにいらっしゃるんですか?」
「ここだよ」
「どこですか?」
「君の目の前」
「って、あの、家の中ですか?」
「否。家だ」
「ああ、はい、ですから・・・」
「私は家である。君の目の前にある家なのだ。名前はルーズベルト。
 人間と話すのは久しぶりだ。
 ハルコさんが入院して以来、誰とも話をしておらぬ」
「イエって、家? ですか?」
「イエス。私は家だ」
「はあ、家、ということですね・・・」
 人を待たせた上、この期に及んで尚も馬鹿にしようとしているこのアポがアホらしくなった。なんせ相手は大家なのか誰なのか知らないが、陰に隠れて姿を見せないし、それにつられ家屋に向かって話をしている自分もまるで異常者ではないか。
 帰ろう。
 本格的に頭がおかしくなる前に。
「ああ! ちょっと待たれよ! 信じてくれ、私は本当に家なのだ。
 久しぶりに話し相手ができたのだ。
 君、わかるかね?
 挨拶をしても、いくら話しかけても、誰にも聞こえず誰にも相手にされず、独りで毎日過ごしてきた私の孤独が。
 私はもっと話をしたい。
 そう、君とだ」
「は?」
「お願いだから帰らないでいてくれたまえ。
 もう少し、ここに居てはくれないか? お願いだ。頼む!」
 そう懇願されても、すんなりと承諾できるはずもない。
 話し相手は自分を『家』だと言い張っているのだから気味が悪いし普通じゃない。
 これは妖怪か幽霊なのか? はたまた単にやばい奴なのか?
 とにかくこんなものに付き合ってはいられない。
 前を向いたまま恐る恐る、そーっと摺り足で後退し、この状況から逃げの体勢に入った。が、見破られた。
「逃げないでくれたまえ。私は何でも答えよう。 
 さあ、質問をしなさい」
 もう涙目になった。
 しかし、この変な相手を怒らせて収拾がつかなくなれば、きっと更なる悲劇が襲ってくるのだろう。
 仕方ない。
「・・・で、ルーズベルトさん、お名前からするとあなたは外人なの?」
 恐怖で顔を引き攣らせながらもわざとらしい笑顔を作り、見えぬ相手に敵意の無さを装った。
「え? あの、そこから入りましたか。
 いや、そうじゃなくて、もうちょっと違う角度からとかだねえ、例えば、
 『話ができる家があるなんて信じられないわ!』
 のようなリアクションではないのかね?」
「・・・」
「うーむ、まあ良かろう。
 私は君が思う外人かどうかは分からない。
 ただハルコさんが私をルーズベルトと呼ぶから私は自らをルーズベルトだと言っておる」
「その、ハルコさんって誰ですか?」
 恐ろしくても会話を進めるしか手が無いようだ。正直、早く帰りたい。
「さっきから君が待っている斎藤さんのおばあちゃんだ。
 今はここにいない。どこかへ行った。
 縁側を踏み外して怪我をしたようだから、多分病院に行っているのだろう。
 もう随分長く会っておらぬ」
「そうですか、入院でもしてるの?」
「ああ、かなり痛がっておったからなあ、可哀想に」
「入院、ですか」
 家との会話はここで終わったのか、ひとまず沈黙が覆った。
 ところが次第にこの尋常でない空間に好奇心がじわじわして、よせばいいのに世にも不思議な家との会話の続きの幕を開けてみたくなった。
 まるで歳を取った赤毛のアンだ。
「ねえ、なぜハルコさんは、あなたをルーズベルトって呼ぶようになったの?」
 家は一呼吸置いて、嬉しそうにまた喋り出した。声はワントーン上がっている。
「それはだな、ここが白屋敷と呼ばれていたからだ。
 ほら、その白壁がぐるりと回っており中はよく見えないだろう?
 近所の人々は昔、ここを白屋敷と名前を付けて羨ましそうに眺めながら前の道を通っていたのだよ。 
 あれは確か、昭和30年代だった。
 まだ戦後からこの国が立ち直ろうとしていた時代であり、皆が貧しくとも理想を掲げ正直な時代であった。ああ、懐かしい」
「昭和30年代って、そんな古いの?ここ」
「そうさな、建ったのはそう、それくらいだった。
 あの頃はまだ戦後の混乱が所々に残った時代でなあ、今の日本人には想像に難い貧しい暮らし向きが当たり前であった。
 庶民は長屋に暮らすのが普通の時代だからして、当時この様なる豪邸は珍しかったのだよ」
「リフォームは?」
「何度かしておる」
 入居希望者としては微妙だが安心した。
 変な曰く付きではなく、単に古いから家賃1万円と謳っているのだろう。それに一応リフォーム済みだし。
「それでだ、ハルコさんは『白屋敷だなんて、化け猫屋敷じゃあるまいし、ホワイトハウスって品のある呼び名に変えましょうよ』と提案したのだ。
 町の人達にもホワイトハウスと呼んでくれと頼んだりしたようだが、まあ相変わらず近所は皆、白屋敷と呼んでおったがな」
「ふーん」
 何気に打った相槌は、家と言い張る相手に更に弾みを付けた。
「それでだな、ハルコさんは私にルーズベルトという名前を付けてくれたのだよ。
 なんでもホワイトハウスを造ったアメリカの大統領の名前だそうだ」
 自らを豪邸と称した上、その声は明らかに誇らしげだ。
「違うわよ。
 ホワイトハウスを造ったのはジョージ・ワシントンよ。
 ルーズベルトは、ホワイトハウスって呼び方を正式な公用名称にした大統領よ」
「えええっ!?」
「知らなかったの?」
 あなたに大声で驚かれなくても、さっきから私の方が悲鳴を上げて驚きたいんですけど、とは言えなかった。
「だってハルコさんがそう言ってたから」
「勘違いしてたんじゃない? ハルコさん」
「そうか。ところで博識だね、お嬢さん」
「私は山口玲緒奈。お嬢さんだなんて呼ばないで下さい。
 もうそんな年じゃないんだから」
 ここまで来たら摩訶不思議な相手に怯む必要は無い。
 私は子ども扱いされるような未熟な女ではないのだ。
 そう、私は大人よ、と。
「そうか、玲緒奈だね、君の名前は。
 玲緒奈、気を悪くしたのならすまないが、私から見れば君はまだ若いお嬢さんだよ。戦後に建てられた家だからな、私は。
 還暦すらとうに過ぎておるのだからして」
「あ、そうね。そっか、そっか。
 でもさ、ハルコさんは、ひょっとしたら知ってたのかもしれないわよ。
 正式にホワイトハウスって命名したのがルーズベルトだって。
 だって、ここをホワイトハウスと呼ぶのなら、あなたを命名者のルーズベルトにしておきたかったのかもね」
 一応、空々しくも気を遣ってみたのだが、ルーズベルトはそのままを素直に受取り喜んだ。
「お嬢さん、いや、玲緒奈、君はなんと聡明なのだ!」
 ルーズベルトが感嘆し私を賞賛してくれる声が静かな住宅地に高らかと響く。
 これが本当に他の人には聞こえないって、信じられないんだけど・・・。



 いつの間にか通り雨は立ち去り、遠くの空に時折響く雷鳴が微かに聞こえるのみとなった時、
「山口さんですか?」
「そうよ、さっき言ったでしょ。もう忘れたの?」
「すみません。そういうつもりではなかったのですが」
「え? あああ! 人間! 家じゃなかったんだ!
 あ、あの、あのですね、すみません!」
 振り向くと、格子戸の手前に立っている男性が傘の中から戸惑いの面持ちを覗かせていた。
 不審な女に『あなたは人間なの?』と質問されるなど思ってもみなかった、という風に。しかも我が家の玄関先で。
「失礼しました。ひょっとして斎藤さんですよね。私、山口です」
 恥ずかしげに顔を赤らめたが、斎藤は何事も無かったように穏やかな挨拶で仕切り直した。
「初めまして。斎藤です。
 ここにいらしたので多分、山口さんだろうと思いました。
 ちょっと出掛けていまして、約束の時間に間に合いませんでした。
 申し訳ありません。どうぞ、ひとまず中へ」
 夕立の強い雨足に打たれ、急ぎ歩いた斎藤の白いシャツは傘から出ていたのか、肩のラインが透けていた。
 一瞬ドキッとしたが、視線を濡れた肩から逸らし誘いに応じた。
「はい、失礼します」
 斎藤に案内されるまま玄関に向かい、ガラガラと軋む音を立て年季の入った茶色の引き戸が開けられると、その家の中に入った。
 そう、ルーズベルトの体内に。
 玄関の片側の壁に据え付けられた足付きの木製下駄箱は、まるで飴のように艶々と輝き、やや高床な玄関の三和土(たたき)とのコントラストは素朴ながらも美しい調和を生み出し、昔の日本の風情がそこに宿っていた。
 ここに一輪挿しの花でも活けてあれば、古き良き時代の物語のひとつでも始まりそうだ。
 そして、今まで経験した事のない広い敷地の平屋住まいが次に広がる。

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