フェミニストにしてベジタリアン:被造物アマゾンズになること(どくしょ感想)
『肉食という性の政治学』キャロル・J・アダムズ
人間の円の中へ入ることを許可してほしいという被造物の無益な願いは、その当時のベジタリアニズムとフェミニズムの立場を反映している。どちらも、彼らから私たちを分け、入ることを拒絶する、くっきりと描かれた円をもつ世界と対決しているのである。(p.149)
これは、フランケンシュタインの怪物に寄せて書かれたひとつの最低綱領だ。
要は、不当な差別とかをやめろという話だ。ここに、それ以上のことは書かれていない。
大抵のフェミニストもベジタリアンも、そしてその批判者たちも、調子にのってそれ以上のことを求めだすから、腰抜けばかりになる。
実際、最低綱領はヌルいものではない。あっさり通り過ぎていけるようなものではない。上に引用した文言とマジに向き合ったやつだけが、ベジタリアンにしてフェミニスト、被造物のアマゾンズに変身する。
この本のボデーの多くは、言説史・表象史から成る。既存のフェミニズム言説を漁ってみるとベジタリアンが実際少なくないとかそんな話で、割と退屈だ。殺して肉を食べるやつらは攻撃的で男根主義者だみたいな引用が延々と続いたりする。ベジタリアンになると尊重がどうとか共生がどうとか言い出すやつらが飽きるほど出てくる。
著者のアダムズも、このていたらくに少しイラつき出して、次のように書き付けることになる。
歴史家たちは、ベジタリアンは肉食の残酷さに焦点を当てることによって、自分の動物的性質を抑圧し、自らの(恐れている)獣性を否認しようとしているのだと示唆してきた。(p.188)
歴史家のこのヤジをマジに受け取ること。
獣のまま、ベジタリアンでありフェミニストになること。
フェミもベジも獣をナメたようなことをやっているから、批判者からもこうやってナメられる。インガオホー。
この本を読んでいるあいだ、私はかの逆噴射聡一郎氏の叱責を何度も思い出した。
おまえらはいつからタルサ・ドゥームのわなにはまり、飢えた獣の心を失った?
残酷とかかわいそうとか言いながら野菜を食べるやつも、自分で血を浴びず断末魔にも打たれずにその肉だけを紙切れと引き換えに掠め取って食べているやつらも、獣をナメた腰抜けで、目糞鼻糞ほどの違いすらない。
アダムズはそれでもこの本を書き上げた。そしてバラまき、少なからぬ者がこの本を受け取った。
貴重な試みであるには違いない、しかし原著が出てからもう25年以上が経つ。
とうぜん、アップデートすべきことがある。
2016年、再び現れたアマゾンの爪で刻むべきことがある。
だから、ここから先は真のベジフェミと真の肉食者の世界になる。それ以外のやつはニンジャでもないかぎり惨たらしく死ぬ。
仮面ライダーアマゾンズ
アマゾンズはまず、アイデンティティーとかの問題を一言で剥いた。
お前は誰だ?
アーマーゾーンでは、この問いは比喩抜きで『お前は何をどうやって食べるやつなんだ?』に変わり、アルファでオメガだ。
ジャンクなものを食べる駆除班のやつら、ハンバーガー好きのモグラ、養殖のやつは薬みたいなものを食べさせられるし、アマゾンのおやつは人間だ。そんなやつらの中で、ひとり鷹山仁というヒゲのアマゾンだけが、自分は何を食べるやつなんだと問い続けている。
だから強い。
その問いを止めたやつから惨たらしく死んで、心臓を喰われることになる。
アマゾンズ体験をすると、残酷だからとかの理由でベジになることがどれだけ獣をナメたアティチュードかを思い知らされる。やつらはかなり強いし、自分が食べるものに対してかなりのこだわりもある。
つまりベジになる理由は、獣を前にしてのその恥辱でしかありえない。卑怯な武器などを使い、自らは血も見ずに肉を食べるというこのザマは一体なんなのか。鷹山仁はそう問いかけながら、自分の手で殺したものだけを食べる。
ここに至っては最初に引いたフェミの最低綱領などあっさりと達されているのが見えるだろう。ジャングル=アーマーゾーンは平坦であり、誰に対しても平等に牙を剥いて殺す。差別などあるはずもない。獲物を選んでなどいられるわけもない。
鷹山仁と同棲する泉七羽はアマゾンを認めたからそこに生きている。
水澤美月は腰抜けだったから水澤悠に置いていかれた。
それだけのことであり、故にアルファでオメガだ。
ベジタリアンにしてフェミニスト。ジャングルの掟、アーマーゾーンの定めを手にして変身するやつだけが、そう名乗るに相応しい。
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