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2022年 良かった小説

1 大胯びらき
2 島とクジラと女をめぐる断片
3 左ききの女

『大胯びらき』

 大胯びらき([原題]Le Grand Écart)は,作家ジャン・コクトーが1923年に著した生涯で二冊目の小説で,日本では澁澤龍彦の翻訳によって1954年に初版が発行された。福武文庫版(絶版。Amazonにて中古の在庫在り)の巻末解説は出口裕弘でぐちゆうこうによる。白水社から出ている愛蔵版では,澁澤龍彦本人があとがきに寄せている。
 私は2021年の暮れに福武文庫版をはじめて読んでから,いまに至るまでこの本を何度も何度も読み返した。そういう意味で,「2022年に良かった小説」という題目からいきなり逸脱しかけているが,『大股びらき』について話さなければこの記事の意味がまったくわからなくなってしまうほどこの作品に傾倒した一年であったから,良しとしている。
 インターネットで,この本が面白い,読んで良かったとか,簡単な所感を投稿することはあっても,実際に会って話すひとに好きな本を勧めたりすることは滅多にない。それはある意味ひどくセクシャルな行為で,秘密にしたいことでもあるからだ。『大股びらき』という青春小説は,私はひとに勧めている。読むべきだよ。とすら言い切ることができる。私のそれは,相手を選ばないレベルにまで達している。

 できれば,できるだけ出口氏の解説がある福武文庫版のほうを手に取って,読んでみてほしい(本文は両版とも同じである)。探せば,各地の古本屋にもまだまだ眠っているだろうと思う。『大股びらき』は,コクトーの原文と,澁澤の翻訳はいうまでもなく,この出口氏の巻末解説が,明晰緻密に,慎重に本文の注釈を挟みながら,ときに澁澤訳の技巧の妙に恍惚さえ覚えているような感情のゆらぎを確かめることができて,読後感に濃密な奥行きを与えている。
 つまり,私も出口氏の言葉を携えながら話したい。

『大股びらき』は,「ジェック・フォレスチエは涙もろかった」の一行から始まって,かなりのあいだ,小説の潤滑油としての会話を用いず,いま引いたような,ジャン・コクトー断想集とでも名づけたくなるような改行の多いエッセー口調で,ひた押しに押してゆく。サービスのゆきとどいた入りやすい小説ではない。だが,読む側としては,思考力をフルに回転させながら,この導入部を一行一行追ってゆくのは,やはり読書の快楽のひとつである。訳者は日本語を一粒ずつ選り出し,一粒ずつ磨きあげながら並べてゆく。苦行にはちがいないが,この『大股びらき』のように訳者が乗っているときは,その苦行の気配さえ楽しげに見える。

 『大股びらき』は短い10の章立てとエピローグから成っている。
 すこし過剰なほど大量の改行と,エピグラフや箴言しんげんによって装飾されていて,ときとしてその文体は散文詩のように振る舞っている。澁澤自身が評論家ランヌの《言語装飾が目的ではなく,言語に苦行をさせるための文体》との評を引いている。
 またある場面ではそういった特異な文体が,いささか軽薄に映る瞬間がある。軽薄,といって良いのか。それから,全体に漂う死の香り。暗い省察。滑稽にも映る乾き切ったデカダンスについて,コクトーはどれほどの介入を澁澤に許したのだろう。
 主人公はジャック・フォレスチエという。

要するに,彼は怪しげなエレガンス,動物的なエレガンスを持っていた。

 私の曲解では,コクトーは「怪しげなエレガンス」を供した。そこに,澁澤が「動物的なエレガンス」を見出していたのではないかと思う。
 ストーリーの筋は文体の特殊さに比べればかなり平易に思える。誰しもが経験し得る青春を描いている。思春期と青年期のはざまにあるジャック・フォレスチエは,読者にとっての青春を想起させるような自意識の葛藤とか,耐えられないような実存の軽さに苦しんでいて,その凡庸さには過ぎ去ったそれぞれの過去についてしばし感傷にひたる要素ではある。
 日本におけるおおよその青春小説的なテーマは,やはり私小説的な要素がなおも色濃く残ってしまっていて,織田作之助とか,坂口安吾的な,けして行動化されないデカダンスに対して,かきたれから借りた金で安居酒屋の女将を口説いていたりする情けなさ,それすらもすべて生活の描写の中に書き切って,坩堝にはまっていく身振りには正直いって胸焼けがする。そして,そんな態度がデカダンスだと受容されているような空気感をずっと感じている。

「睡眠は,われわれの註文通りにぐるぐる廻りながら泳いでいるようであった。鳥は翼をすぼめ,不眠の縁に来てまり,首を曲げたり,翅に磨きをかけたり,足ぶみしたりするのだったが,遂に眠りの内部に侵入しては来なかった」

 澁澤が表したデカダンスは,こういったもので,何度唱えてもうっとりしてしまう。しなやかで長い尾を優美にくゆらせて泳ぐ魚を眠気に喩えた硬質の一節は,読者の内的な領域からは精神的な距離を大きく取って,遂に内部には侵入しないのである。
 私はこういった,フィクションの中のフィクション。夢の中で夢を観ている夜明け前のああいった感覚を,『大股びらき』を読むまで久しく忘れていたことを知った。それは妥当な,誰にでもあった10代の私や,我々(とまで言い切れる)のこころにあった感覚だったのだが,忘れていたのだった。

十一歳から十八歳までの七年間を,彼は,燃えやすくて変な臭いのするアルメニヤ紙のように,めらめらと焼きつくした。

 澁澤の翻訳は,そういう目線から時間の感覚を捉えている。

練達,暢達としかいいようがない。時として澁澤の訳文はなめらかすぎて,もうちょっと渋滞感があったほうがいいんじゃないかとさえ思わせるが,この『大股びらき』の場合,コクトーの原文そのものが,箴言ふうでもあり散文詩的でもあり,短いセンテンスをかさねて一挙に真実を提示してみせながら,同時にゆたかな「喩」を楽しませてくれる稀有なもので,澁澤の訳文も,暢達でありながら,屈折に富む,まれに見る成功例となった。くりかえすが,これが二十五歳の,という嘆声は,誰の声からも洩れるはずで,特に,はじめて読む若い人たちに共有してもらいたい嘆声である。

 10代の折,愛する私のママンに村上春樹を借りた。ママンは「そういう本は,若いうちにしか読めない本だからいま読みなさい。そういう本は,わたしにとってはもう何も響かないから」と私に言った。ママンにとっての『風の歌を聴け』がそうであったように,『大股びらき』は私にとってそういう本になるのだと思う。カミュはもっとも重要な作家だが,この,ジャンコクトーや澁澤龍彦といった存在は,あとしばらくは私の半身に重くのしかかっているだろう。一番きれいな思い出にしみを遺して。


 正直いって,もう書くの疲れた。満足した。駆け足になる。


『島とクジラと女をめぐる断片』

 島とクジラと女をめぐる断片([原題]Donna di Porto Pim)は,作家アントニオ・タブッキが1983年に著した小説で,日本では須賀敦子の翻訳によって1995年に初版が発行された。河出文庫版の方を読んだ。単行本は青土社から出ている。訳者のあとがきと,巻末解説は堀江敏幸による。

 アントニオ・タブッキという作家をそもそも贔屓目にしていて,それはタブッキの本で外れたことがないからだ。どんなに素晴らしいと思える作家でも,キャリアの波かなにかで輝きの劣る作品を読むと落ち込む。私の悪癖なだけだけど。
 昨晩も,『供述によるとペレイラは…』の導入だけ読み,あまりの卓抜さに満足して,そのまま酒を飲んで寝た。というわけで2022年は,タブッキの本をよく読んだ。
 『島とクジラと女をめぐる断片』(以下『島とクジラ』)は,5月の,みずみずしく晴れ冴えた伊豆大島に行った後に読んだ。その旅行じたいがちょっと変で,途中からウェルベックじみた展開を産んでいてディティールをよく覚えているのだが,それはまたいつか話します。
 それもあって,私にとって日本の初夏のような小説である。外気温がその年初めて25度を記録した,晴れた日のことである。
 『島とクジラ』は,タイトルのとおり断片集のスタイルを採っていて,まえがき・あとがきを含めると10の掌編から成る。そのため主題がころころと変わり,時間感覚は過去から現在まで自由に伸び縮みする。それに,書き手の意識が飛んでいく瞬間があるというか,はしごを外されるような不安定感がある。
 そう書くと散漫な印象になってしまうが,音楽のような文章であって,好意的に受け取っている。タブッキは実に自由な書き手だと思う。調子に乗ったネコみたいな実体の定まらなさ。
 うーん,なんとなく,私には,地中海の倉庫から発見された郷土史や,船員たちの公開日誌,当時の新聞の三面をタブッキが気ままに拾い集めてきて,時系列をごちゃ混ぜにして再編したような印象がある。
 まるで地上の楽園のような舞台演出も,タブッキの編集によって,幌を外せば正体のわかる幻影に変わるのだ。
 快感の方向性としては,サンプリング主体のhiphopとかの方が近い。


もうほんとに書くの疲れた。集中力とか切れた


『左ききの女』

 左ききの女([原題]Die linkshändige Frau)は,作家ペーター・ハントケが1978年に著した小説で,日本では池田香代子の翻訳によって1989年に初版が発行された。同学社から出ている。巻末には訳者のあとがきが寄せられている。

 この作品は孤独の諸相だけで成り立っている。

 訳者のあとがきからの抜粋である。つまり,明確な困り感を得ている。だから,私に書けることはあまりないし,正直いって2022年に読んだ小説を3冊にまで絞った時点でもう十分だと感じている。
 コクトーと同じく,オーストリア出身のハントケも多才であった。戯曲や映画の脚本,小説執筆など活動は多岐にわたっていたようだ。実際『左ききの女』は,『大股びらき』『島とクジラと女をめぐる断片』に次いだ傑作だった。
 156頁で物語は終結する。私は短い小説が好きだ。短いのにはさまざま理由があって然るべきだが,とにかく長い小説に対しては,読み手の時間を奪ってやろうという動機以外にあまり魅力を感じない。短い小説はいい。『左ききの女』はこのボリュームがもっとも収まりがよく,完成された短さである。いつだって,勇気があるのは短編作家の方である。
 『左ききの女』は,作者も認めるとおりに実験的な小説で,導入部分にざっと目を通しただけで,これが「映画的な文体」を構造の下敷きにして書かれたものだとわかる。というか,これはまるっきり映画だ。
 卑近な例で申し訳ないが,藤本タツキといえば「ああ,映画みたいな漫画のひとね」と了承し合うのが現代のキッズたちの感覚である。
 ハントケが目指した「映画みたいな小説」は,しかし,あまりにも強度が強すぎたのだと思う。
 『左ききの女』という映画の脚本があったとして,それより確実に映画的である。
 映画的とはなにかといった話にもなるか。
 面倒なのでしません。
 でも私,みんなこういうの好きだと思うな〜
 こういう,トリッキーが板につきすぎて全く作者の手から離れちゃったみたいな,お話
 好きでしょ?
 ああそうだ,それから,性描写が淡白なのがいい。
 あげた3作品とも,とてもあっさりしたセックスをする。
 書かなければいいというわけではなくて,小説って,性描写を小脇に挟みながら,それをいかに手持ち無沙汰に見せないか,それでいて真似したくなるようなセックスを描写するかみたいなのが,私の中で割と大事なファクターなんです。

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