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まれ天サンプル(第41回)、札幌競馬場『原始読者』


原始読者

草薙 渉

 小説が好きだったから、植野は出版社に就職し文芸を志願した。入社後十年。単行本や文庫の手伝いからスタートして、五年ほど前から文芸誌編集部に所属になった。平均すると、日に本一冊分の原稿を読むことにもすっかりと慣れた。さまざまな作家とライヴで関われるのは、嫌なことも多かったがそれなりに充実していた。
 
「いつか大柴さんに、源氏を書かせたい」
 編集長のその言葉はもう何度も耳にしている。植野はそのたびに、大柴源氏ねえ、と首をかしげた。
 源氏物語は谷崎源氏、与謝野源氏、円地源氏、野上源氏、瀬戸内源氏、田辺源氏など、たくさんの作家がそれぞれの味を出して現代語訳に挑戦している。しかし大柴廉太郎といえば歴史小説だし、源氏は男女のことを核にした時代小説だから、と思っていたが編集長には言えなかった。
 編集長の夢である大家の大柴先生はご高齢で、生まれ育った札幌に隠棲してもう十年以上書いていない。若いころは信長、秀吉、家康の戦国時代はもちろん、龍馬を中心に幕末の名だたる人物をほとんど書き、その確かな人物眼と見識で他の歴史作家を圧倒凌駕してきた。代表作を二つほど読んだ植野は、老後の楽しみにとマークしてある作家の一人だ。凡百の物書きの中で、志のある小説を書ける数少ない人であることは間違いないが、いまはまだ、もっとフィクション性の高い新機軸の創作作品に心ひかれている。
「で、おまえの文芸編集者としての夢は?」と編集長が訊いた。神保町の居酒屋のカウンターだった。
 夢? 後期団塊世代特有のこういう熱くるしさが鬱陶しいのだが、顔には出せない。
「そうですね。驚かされたいですね。サリンジャーの『ライ麦』を最初に読んだ編集者のように、なれたらいい」と、植野はホッケをむしりながら答えた。
「『ライ麦』を最初に読んだ編集者は、クレイジーだと突っ返したんだぞ。その後サリンジャーは幾つかの出版社に持込んで断られ、最後にモノ好きな編集者の目にとまった」
「そう。リトル・ブラウン社から出版されて、たちまち全米の若者の心をつかんだ。僕はそのモノ好きな編集者になりたいんですよ」
「おれも三十数年文芸やってるが、そんな大物に当たったためしがない」と、編集長が笑った。「そうじゃなくて、こちらから仕掛けて書かせてこそプロの編集者なんだ」
「プロの編集者、ですか」と植野は小さくうなずいた。「大柴先生に源氏を書かせれば、そりゃあそこそこ売れるでしょうが、それが編集者冥利のすべてかなぁ」
「馬鹿野郎。一編集者に出来る範囲なんて知れたものだ。同時代の巨匠が源氏を書いて、それを書かせたのが自分なら、それは墓場まで持っていける名誉だろうが」
「それよりも『ライ麦』の原始読者になれるほうが、文芸に関わる人間のご褒美としては価値があると思うけど」
「川端の『雪国』。その生原稿を最初に読んだ先輩の話を聞いたこともあるし、三島の『憂国』の原担当者も知っている。だがそれらは、彼らが仕掛けて書かせたものじゃない。言ってみれば棚ボタでしかないんだ。おれの言っている意味はわかるよな」
「わかりますよ。でも僕は棚ボタでいいから、魂を鷲掴みされるような小説の第一読者になって、驚きたい」
「棚の下で口あけて待ってるだけってのは、プロとしてはアマイ」
三本目のお銚子を横にした編集長が小さく首を振る。そして、「そういえば植野、おまえ金曜日は札幌出張だったな」と思い出したように言った。
「ええ。蛭川さんの連載原稿をいただきに」
「メールやファックスのご時世に、いまだに手書き原稿を頂戴しに行かなければならないとは、官能大作家先生の担当もたいへんだな」と、編集長がカウンターの向こうの板さんに空の銚子を振って見せる。「で、ついでと言ってはなんだが、そのまま泊って、土曜日にもう一件頼まれて欲しいんだ」
「いいですよ。どうせ蛭川さんの所へ行けばそのまますすき野だろうし、千歳発の最終便は、ハナッから諦めてますよ。なんですか、もう一件って」
「大柴さんに会って、届けてほしいものがあるんだ」と、編集長がニヤリと笑った。
 
 金曜の札幌は篠つくような雨だった。ようやく頂いた蛭川原稿を編集部にファックスして、ホテルのベッドに倒れ込んだのはすでに土曜の朝だった。それでも植野は編集長に頼まれたとおり、昼過ぎにはタクシーに乗って「札幌競馬場」と告げた。
 しかし、と植野はタクシーの中で二日酔いの頭を振った。だいたいこれは、編集長の道楽じゃないか。東急ハンズで特注したというジッポーのオイルライター。その表面には、千社札のように『大柴廉太郎』、と江戸勘亭流の書体で刻印されてある。そして裏面には、同じ体裁で『源氏物語』の文字。何というか、編集長らしく、いかにもあざとい。
 いきなり源氏とは言わないが、せめて短編の原稿でも頂ければ、これは文壇のビッグニュースなんだが、と言った編集長の顔が浮かんだ。なにしろ、ここ十数年読者が渇望している。まぁそれはともかく、そのジッポーを届けてくれ。大柴さんは毎週土日の午後は必ず、札幌競馬場三階のアサヒビアホールガーデンで、うだうだとビールを飲んでいるはずだ。
 
 タクシーを降りて札幌競馬場に入ってすぐ、「どうも」と声をかけられて植野は立ち止った。昨日の夜、蛭川さんに連れていかれたすすき野のクラブで、たまたま一緒に呑んだ会社員たちの、一番若い青年だった。お互いわがままな年長者のお世話で、同じ苦労をひしひしと感じさせたものだった。
「あぁ、昨夜はお疲れさま」と、軽く会釈してエスカレーターに乗った。
 三階のアサヒビアホールガーデン。植野はそこに入ってすぐにわかった。一番奥の窓側のテーブルで、数人の常連らしい男たちとわいわいやっている。一度どこかのパーティーで名刺を渡したことがあるが、覚えてはいないだろう。植野は生ビールの食券を買って、大柴たちのいる隣のテーブルの椅子を引いた。
「先生。先週の最終は見事でしたね」と、隣の声が聞こえた。
「あぁ、あれね。世の中は実によくできると、しみじみと知らされたよ」と大柴の声がした。
「ほう。何が、よくできているんですか?」
「川田を頭に、三連単一着流しのボックス三頭で十三万儲けた。六百円がなんと十三万に化けたのだ。そして意気揚々と家に帰ったら、トヨタから電話があった。その低い声に嫌な予感がしたんだが、車の修理代が十三万だと告げられた」
 隣のテーブルがどっと沸いた。「気落ちしたまま、わかりましたと応えたら、では明日お車をお届します。ちなみに、私、担当のカワダです、と電話を切られた」
 ここでまたどっと沸いた。「まったく、カワダで拾った金を、カワダが持っていっただけのことだよ」
 やがて仲間内の楽しげな会話が途絶え、何人かが馬券買いに立った。そこを見計らって、植野は大柴に声をかけ名刺を差し出した。
「これをお届けするよう、編集長に言われて来たのですが」と、小さな包みを手渡す。
 包装を解いた大柴は、ジッポーを手にしてその表裏をたしかめ、にやりと笑った。
「わざわざこれを届けるために、北海道まで来たのかね?」
「いえ、そういうわけでもないのですが」
「源氏は、私にはなじまないと伝えてくれ」と大柴は言った。「ただ、彼の編集人としてのプロ意識には頭がさがる。ありがとうと言ってくれ」
「わかりました。せっかくのお楽しみのところおじゃまして、すみませんでした」と、植野が早々に帰ろうとしたとき、「で、キミはどんな編集者になりたいのかね?」と、大柴が隣の椅子を勧めた。
 いきなりそう訊かれて、植野はたじろいだ。勧められた椅子に浅く座って、とりあえず、先週編集長と居酒屋で交わしたあたりのことを訥々と口走った。
 大柴は小さくうなずきながら、「ほう、『ライ麦』の、原始読者か」と小声で相槌を打ったりした。
 そうこうするうちにレースが終わったらしく、何人かの常連がテーブルに戻ってきた。ビールやつまみの新しい食券をテーブルに置いて、場違いな植野をいぶかしく見やりながら、終わったばかりのレース話に沸き立っていた。
「では、私はこれで」と、植野は立ち上がった。
「まッ、頑張りなさい。私も頑張る」と、大柴は馬新聞に手を伸ばした。
 
 それから五日ほどして、植野はいつになく高揚している編集長に呼ばれた。編集長は机の上の分厚い宅急便の包みから白い封筒を取り出し、「読んでみろ」と手渡した。
『 編集長殿
 たっぷりと熱意のこもったジッポー、ありがとう。実のところ使用中のジッポーが不具合で、小さな難儀を抱えていたこともあり、とても重宝している。そのお礼ということでもないのだが、遺作にするつもりでここ数年、密かに書き上げた千枚ほどの作品があって、そちらの都合がつけば、お任せしたいと同封した。残念ながら源氏ではないが、私がずっと気にかかっていた南方熊楠で、自分では書けたと感じている。
 ただひとつ、お願いがある。原始読者という言葉に感ずるところがあって、この作品については、先日札幌競馬場に現れた植野クンに、まずは読んでもらいたい。サリンジャーの『ライ麦』とはまったく異質の作品だし、そのあたりを嗜好する読み手に大いなる驚きを与えられるかわからないが、彼をして原始読者としていただければと考えている。
さて来週は札幌記念。よかったらこっちに来て、一緒に大損しないか。
大柴廉太郎拝』

 太い万年筆でつづられた、大振りの腰の強い文字だった。
「今すぐに読み始めろ。そして明日の夜までに私に回してくれ。コピーして札幌記念の朝までに、遅くとも千歳に着くまでに、私も何としても読み上げる」
 会心の笑みを湛えた編集長が、強い力で握手してきた。(了)
 

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