自己否定は蜜の味
定期的にやってくる“アイツ”
そう、自己否定君。
まいりますわぁー。
偏頭痛ならぬ、偏心痛。
でも、自己否定するのは、一種の自己表現であり、自己実現なんだと知ったときの「ハァー?」感。
まず浮かんだのが「そんなわけ、ないっしょ!」
でも、説明を聞くうちに納得せざるを得なかった。
ゔゔゔ〜。
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ちょっと、過去に戻ってみよう。
小さいころの痛い経験を振り返る。
小学校低学年だったかな。
夜、何かでぐずって、親に怒られ、そのままベランダに出された。
もうそれは、外は暗いし、寒いし、なんか怖いしで、ギャーギャー入れてくれー!!って叫んだよ。
今ならすぐに児童相談所モノだろうけれど、
その頃は、そんな光景があちらこちらの家でみられ、「あー、また〇〇さんところがやってるね〜」くらいのものだった。
子どもだった頃の記憶だけれど、それはそれはかなりのダメージだったんだろう。
いまだによく覚えている。
で、それが怖くて、嫌でたまらなかったはずなのに、
何度か経験すると、人間って不思議すぎる。
それが、クセ?になるんだって。
えっ、言っている意味わからんてな。
ようはタバコやお酒と同じように、生まれて初めて一口目から「ウマイ!」という人はいないと思う。
やっぱり、最初はゴホゴホしたり、アルコールに「ウェッ」っとなったりしたんじゃなか。
でもそれを繰り返すうちに、適度な範囲を超えて、気がつくと身体に良くないと分かっていてもやめられなくなる。
自己否定する元になった「親に怒られる」体験
実は、ここが大事。
この「怒られる」という非常に強い恐怖や不安体験は、
好ましくない体験に見えるけれど、別の角度からすると違って見える。
もし感情の振り子があるとするなら、
両極端は全く違うように見えても、実は同じ。
愛憎紙一重と言うけれど、
強い愛情も
強い恐怖も
脳の中では同じ
「私に集中してくれている」だから。
強い恐怖や不安などから
「あー、私はなんてダメなんだ」
「親の望むようになれない、期待に応えられない私はなんてダメなんだ」
と強烈に自分を否定する
=強烈に自分を意識する
=強い自己認識が生まれるということ。
まぁ、この時生まれる自己認識は
「私はなんてダメなやつなんだ」という、あまり楽しくない自己認識だけどね。
つまり、私たちは愛憎に関係なく、自分を知るために
自分を強く感じる体験を繰り返そうとする生き物。
それが、
喜びや楽しみで自分を強く感じる経験か、
不安や悲しみで自分を強く感じる経験か、
どちらもある。
だから、
恐怖・不安から、自己否定になり、=「自分を強く感じる」は、
逆もしかりで
「自分を強く感じる」=そのために自己否定が必要だから、恐怖や不安になる出来事を求めてしまう。
自己否定や自己破壊を繰り返してしまうっていうのは、
自分をより知るという、蜜があるから、やめられないんだね。
でも、同じ蜜なら
苦い蜜より、
甘い蜜がいいな。
その転換はできるの?
できるよ。
実は単なるパターンを変えるだけだから。
それについては、また次回でね。
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