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あの車窓は在りし日の記憶


ガタン―ゴトン――――


今となっては忘れた名前の駅に、その列車は止まった。

「ばあさん、今どこなのー。」

着駅時の車掌のアナウンスがどのようなものだったかは覚えていない。ただそれがどのようなものであれ、列車が止まる度、わたしは祖母に駅の名前を聞いた。すると祖母は律儀に毎度答えてくれる。祖母の口から聞く駅の名前はなんらかの詩情を持っていた。わたしはそれが好きだった。

この電車が向かう先は秋田である。祖母の家は秋田にあり、わたしは祖母に連れられてそこへ行く、これはその道中だった。共稼ぎで忙しい両親に代わって、秋田の祖母がわざわざこちらの家に同居してわたしの面倒を見てくれていた。年に二度、具体的には夏休みと冬休みに、わたしと祖母は秋田へ行く。だからこれはわたしにとっては祖母の家への旅、祖母にとっては帰省を意味する。

一定の停車時間を経て、列車は走り出す。
これはただの列車じゃない。寝台特急、という。いかにも速そうだ。でも、そんなとびきり速そうな乗り物でさえ、秋田に行くには時間がかかる。具体的に何日かは覚えていない。まどろむままに目を瞑れば、気づいたらそこにある。私にとっての秋田の常だったからだ。とにかくとても遠い場所だった。

秋田はまだ遠い。

「おなかすかない?おにぎりあるよ。」

祖母が家を出る前に握ってくれたおにぎり。せっかく旅なんだから、車内販売とかの食べたい、なんて言葉が浮かぶほどには生意気で、しかしそれを口に出さないほどには分別があった。もっとも、ラップを剥いでそれにかぶりついたら直ぐに食べきるほど、結局祖母のことが大好きだった。

わたしのそんな反応に満足げな祖母。その顔のすぐ後ろに、雪の降る車窓が見えて、わたしは口をもぐもぐさせながら、雪、といった。あァ、雪だねえ、と祖母が返す。

『おめ来年も帰ってくるべ、寝台特急さ乗って』

秋田にいる叔母たちが去年言った言葉である。毎年地元へ帰るのを嫌がるわたしに対しての常套句だった。雪の車窓を見ると、秋田に近づくのを感じて心が躍る。寝台特急とは私にとって雪の車窓であると言っていい。そしてまた、祖母の雪を見つめる視線が、ごくごく日常的なそれであるのに対し、ときどき寂しく思い、ときどき憧れた。祖母の娘である母も、同じ反応をするのだろう。しかし、ああ、どうやったって、関西出身のわたしは毎年、雪、と言ってしまうことはやめられなかった。


祖母の家の最寄りの駅についたあと、新雪をズックで踏みしめながら歩く。これが旅の終わりの儀式だった。―――――





寝台特急「日本海」は、2012年3月16日に定期運行を終えた。

当時小学校低学年だっただろうわたしの、そのときの感想は思い出せない。否、その当時にはそのものが無かったのかもしれない。なにせわたしが(今は無き)寝台特急に思いを馳せるようになったのは、その10年もあとのことである。

ともかくその後、寝台特急がなくなったのをきっかけに、祖母は秋田に帰ることになった。わたしもある程度手がかからなくなってきたからだ。それと同時に、祖母の家に行くのは年に一度、夏だけの機会となった。これに関しても理由は単純で、冬の秋田は豪雪により、飛行機では往々にして着陸できないことがあるためである。かくして冬の秋田への道が絶たれたという事実を知ったときには、さすがに悲しい気持ちになったのを覚えている。そして、中学に上がって吹奏楽部に入ってからは、勉強と部活に忙殺されて、とても秋田に行く余裕など無くなった。高校も引き続き。祖母と電話する母の携帯、それが大学入学までの6年の間の、私と祖母家の絆であった。

ゆるやかに祖母や秋田という土地から離れていくように見える上記の流れは、実際そのときのわたしにとって非常にグラデーション的で、それからの私の暮らしにおいて致命的ダメージを与えはしなかった。もちろん数回くらい、祖母を思い出して泣く夜がなかったとは言わないが、それも結局「懐古」という言葉に収まる範囲である。

しかし大学入学後、その反動ともいうべき、秋田への郷愁―それは幼いころには自覚すらできなかったが―があふれることとなり、それは言葉で表すところの「寝台列車の記憶の回想」につながった。この文章はつまりそういうことである。驚くべきことに、わたしが寝台列車での在りし日の記憶を思い出したのは、ごく最近のことである。母とのたわいもない会話からだった。どんな文脈でか呟かれた「寝台列車」というワードを聞いたとき、かつて私の暮らしに当たり前に組み込まれていた秋田という土地、そして祖母家の人々のことを思い出した。それ自体に意味は無い。ただ、それらを気づかぬうちに手放して暮らせていた今までの数年間にひたすら啞然としたのである。

それからというもの、秋田に行きたい衝動は、当日予告でのアポなし祖母家訪問という形で一度は発散された。訪れた祖母の家の犬小屋はひっそりと消え、あのとき中学生だったいとこが大学を卒業しかけている。いとことわたパチ(これも今となっては無い商品だったかもしれない)をよく買いに行った駄菓子屋はだいぶ前に潰れたらしい。わたしのなかで止まっていた秋田の時間が一気に流れていく感覚があった。

しかしそれはわたしを決して置き去りにはしなかった。祖母は駅の改札口で、大学デビューの一環で奇抜な髪色となったわたしを一目見て駆け寄ってきたのである。実際には、祖母は足を悪くしていたため、目を見開いた祖母に気づいた私が走り寄ったというのが正しいが。

「おめだば何も変わらね」

家に行くまでの道中も、食事の際も、寝る前も、祖母と叔母はそう言った。方言は心得ていないながら、わたしも同じ旨の言葉を返した。



寝台特急「日本海」は、2012年3月16日に定期運行を終えた、と述べた。ウィキペディアから引っ張ってきた情報だ。さて、そのウィキペディアを見たところで(「日本海」という名前や停車駅をみたところで)なんの旅情も思い浮かばないのである。わたしにとっては、ふと、気になったので調べたらそういう名前で、そういう歴史だったらしいという知識程度の認識に過ぎない。「寝台特急」はその車両のことではなく、雪の車窓であり、祖母の膝枕であり、叔母の常套句の一部だった。

わたしは今でもときどき、あの寝台特急の車窓とそこに映る在りし日の記憶を反芻する。秋田とのつながりが回復した今にあってもなおそれをするのは、現時点ではとある義務感からである。二度と経験できなくなる、失うということについてその意味を知らず、回想することすら、悲しむことすらできなかった幼い自分に代わって、今わたしが感傷を引き受けるという義務である。わたしはこれをいつになったら辞めるとかは決めていない。というのも、人生は長ければ長いほど、これをする必要が増えるのだ。今の私を取り巻く事象でさえ、未来の私による感傷をさけることはできないのだろう。

ともかく、私はこれから何度も、あの車窓を思い出すのだ。

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