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カモとしてのヤンゴン放浪

帰国後のメンタル不調と仕事始めの関係で前記事から3ヶ月も経ってしまいました。言い訳は当記事でもたくさん出てくるのでさておき、これらを消化しないと前に進めないので時間を見つけて書いていきます。


戒厳令下の観光名所へ


宿泊したダウンタウンのホテルは非常に快適だった。
ドライヤーや歯磨きなどのアメニティに加え、何よりバスタブがあったことに驚いた。ほとんど田舎の方にいたからというのもあるが、タイでは同じ値段でもシャワーがあるだけで銭湯好きの私は常に痒いところをかけないような疲労感を覚えていた。数ヶ月ぶりに心地よいお湯に浸かり、ずっと緊張していた心身も一気にほぐれた気がした。

朝食中に突然停電が起きた。
依然として不安定な電力配給が続いていた。


ホテルでの朝食

バイキング形式の朝食を済ました(美味しかった)、早速ヤンゴン最大の観光名所であるシュエタゴン・パコダへ行くことにした。
ホテルから歩けなくはなかったので、散策がてら徒歩で向かう。
整備された道路の中央には、黄色・緑・赤で構成された縞々模様と中央に白い星が置かれた国旗が点々と設置され風になびかれている。この国旗にはミャンマーを地理的・民族的に一体化するという意味がある。

シュエタゴンパコダ近くの道路。
歩道も綺麗に整備されている。


段々と本当にミャンマーに来たんだなぁという実感が沸いてきてパシャパシャと写真を撮りながら歩いていると、日傘を差した若い女性が物珍しげにチラチラとこちらを見ていることに気づいた。

とにかく誰かと話したがりな私は、「シュエタゴンパヤーに行きたいんだけど、こっちであっていますか?」とわざと聞いてみた。本当はGoogle先生についていけば問題ないのだが。
するとどうやらその女性もシュエタゴンパコダに向かっているところだったらしく、私を案内してくれることになった。英語は少ししか分からないようだったが、なんと私の手のひらを引っ張って急ぎ足で連れていってくれる。

そうだ、今日はクリスマスイブ。 
メーソートで友達はできたが、できればヤンゴンでも交友関係をつくりたい。もしかしたらこの後仲良くなって…なんてこともあるかもしれない。

というのは私の妄想に過ぎず、シュエタゴンパコダの入口まで行き「ここで靴を脱ぐのよ」と言って一緒に写真を撮ったあと「じゃあバイバイ!」と走ってどこかへ行ってしまった。
一緒に歩いている途中に私の方からFacebookを交換しようとも言ったのだが、あいにく軍によりSNSが規制されており交換することができなかった。ミャンマーの軍事政権は国際恋愛すら妨害する。

シュエタゴンパコダの入口


もちろんシュエタゴンパコダを見るのは初めてで、数百メートル離れた場所からでも分かる存在感に感銘を受けた。入館料は外国人料金で20000チャットと少し高め。(以前は10000チャットだったらしい)毎度のごとく受付係の中年女性にはミャンマー人と思われていたようだが、私がオドオドしていたせいか外国人であることがバレて結局外国人料金を支払う羽目になってしまった。

受付では名前と国籍を書く用紙があり、日本人の名前も数名あった。だが今のところ日本人どころか外国人すら見ていない。
裸足でエスカレーターに乗ることに少し抵抗感を覚えながら本堂まで上ると、開放的な敷地と黄金色で輝き圧倒的な存在感を放つ寺院が目の前に現れた。

12月24日の正午頃。多くの人が行きかっていた。

参拝する人や僧侶も多く、一見警察や軍人も見かけない。思い返せば、日中で開放感もある上に人が多かったこのときが1番心理的に安心できていたのかもしれない。

シュエタゴンパコダを訪れたあとも、ジャンクション・シティやスーレーパコダなどヤンゴンの著名な観光スポットを一通り歩き回った。

ジャンクションシティは日本にもよくあるような現代的な商業施設で、施設内の入口前ではクリスマスツリーや雪だるまの模型を前に写真を撮る人で溢れていた。ミャンマーで雪を見れる場所は限定的なはずだが、こうした西欧的な文化が人々に染み込んでいるのはどこも同じなのだろうかなどと、つまらぬことを考え眺めていた。

ジャンクションシティ入口付近で雪だるまの模型と写真を撮る人々。

また、メーソートでよく見かけた伝統衣装であるロンジーやタナカを顔に塗っている人もあまり見かけなかった。むしろ顔さえ気にしなければ、ここが日本だと言われても何の違和感もない。

日本に戻ったときのことを考えて冬物のジャケットくらい買っておこうかと思い、施設内にあった洋品店を覗いてみるとその値段の高さに面食らった。
700,000チャット(数万円)…?そっと手にした商品を元に戻したが、購入する人はどのくらいいるのだろうかと疑問しか湧かなかった。

とまぁ、平凡で退屈なヤンゴン観光記録はこの程度にするとして、私が今回のヤンゴン放浪で体験したぼったくり被害を次にまとめて記していく。
とはいえ、いずれも事前に調べていれば騙されることのなかったよくある事例だ。

被害届多発の「ダラ地区ダークツーリズム案内」

昼過ぎから夕方に差し掛かる頃、スーレーパコダを後にし徒歩数分のところにあるマハバンドゥーラ公園を訪れた。公園には芝生に居座って談笑する家族連れやカップル、入口にある屋台で食事をする者など、外部の者からしたら「平和」にしか映らない光景がそこにあった。

それは他の観光スポットや市街も同様で、とても内戦中の国とは思えなかったが、その光景が偽りのものであるということだけは頭に留めておくように心がけていた。

午後16時頃のマハバンドゥーラ公園。

公園でいくつか写真を撮り終えたときのことだった。
1人の若い男性が隣にそっと近づき英語で話しかけてきた。「どこの国出身なのか」「どのくらい滞在するつもりなのか」などのよくある質問をいくつか受けたあと、「私は日本語学校で日本語を勉強している」とその男は伝えてきた。

実際には単語を並べて話すだけで片言の日本語とさえ言い難いものだったが、日本語が少しでもわかるということに、無意識に安心感を抱いている自分がいた。
タイ国境でも日本に行きたいというミャンマー人にはたくさん会ってきた。彼もその1人なのだろう、と。

もっと言い訳をならべるとしたら、この男によく似ている顔立ちのミャンマー人とメーソートで友人になっていたからとか、ヤンゴンに知り合いを作りたかったとか、そんなところだろうか。

英語を交えて現在のヤンゴンの状況や日本の鎌倉がどうとか(恐らく大仏があるから知っていたのだろう)10分~20分程度会話をした後、彼のほうから「もし時間があるなら街を案内するよ」という誘いがあった。
噂通りミャンマー人はなんと優しいのだろうと、私はすっかり警戒することを忘れて、その誘いに従うことにした。まぁ、ちょっと付いていくぐらいなら問題ないだろう。


こうしてカモは見つかったのだ。


男は最初に公園前にあるヤンゴン市庁舎やジャンク品を並べたマーケット等を紹介した後に、日本政府が援助してできたというフェリー乗り場へ私を案内した。

乗船したフェリーから見たヤンゴン川の景色。

確かにその船には日本の国旗が貼られており、日本のパスポートを見せれば無料で乗船することができる。と言っても、料金を支払うとしても数十円ほどでしかないみたいだ。

フェリーに乗って「綺麗な景色でしょ」という男に対し、良い反応を見せないといけないと思いわざわざ写真を撮ったり「綺麗だね」と適当に相槌を打ったりしていた。

が、こうして書きながら思い返すとバカ真面目に反応していた自分に腹が立ってくる。ちくしょう…。


フェリーに15分ほど乗って対岸の土地・ダラ地区へ足をつけた後、男は運転手に交渉することもなくごく自然にトゥクトゥクに乗った。彼専門のドライバーなのかと思うほどの素早さにどこか違和感を覚えつつも、現地の人だとこんなものなのかなと思って気にも留めなかった。

ドライバー(右)と何故か最初から助手席に座っていた男(左)


よくよく思い返すと、男は公園にいるときからフェリーに乗っているときまで頻繫に何者かと電話をしていた。

その度に「恋人がうるさくてね」と言って誤魔化していたが、見せてもらった写真の女性はとても綺麗な顔立ちとスタイルをしていた。これは証拠があるわけではないから私の感情の当てつけと捉えてもらって構わないが、その女性の写真はネットに転がっているものを引っ張ってきたのではないか。

女性のことはさておき、良いカモが見つかったということで運転手らと連絡していたことは間違いない。

運転手、公園から付いていった若い男、助手席になぜか居座っているおじさん、そして私。
さてさて、愉快なダラ地区ダークツーリズムツアーは幕を開けた。

案内された特に変哲もないパコダ。

まず、彼らは港から車で5分ほどにあるパコダへと案内した。スーレーパコダやタイ国境で見てきたパコダと比較しても小さな規模で、なぜこんな場所に案内したのかよく分からない。
男は敷地内にある像や棺前を指差して何やら説明してくるが、正直なところあまり価値を見出せない。決まり文句は「よくここに外国人が来る」だ。その意味はもはや説明不要だろう。


続いて案内された場所は「外国人がよく訪れる漁師の街」である。上述のパコダから5分ほどで到着し、若い男がここで車を停めてくれと言った。だが、運転手と助手席の男たちでさえ、これの何が珍しいのかという反応だった。しっかりとコンビネーションを取っていただきたいところだ。

車から降りた橋から見た「漁師の街」の風景。

風景としては悪くないし、ミャンマーの漁業を見れるとしたら面白いかなと思いとりあえず写真を撮る。
いや、もはや撮ってあげるという表現の方が良いのかもしれない。

早いところ、このよく分からないツアーの最終地点に辿り着きたい。私の心のなかでは、彼に付いていったら良い取材場所に繋がったり、何か面白いことが起きるかもしれないというワクワク感だけが常に先行していた。

案内人の若い男とダラ地区の集落。

また車を走らせ、数分で小さな集落が見えてきた。
この頃には日が段々と落ちてきて薄暗さが広がり、不穏な空気が漂っていた。
「ここに住む人たちはとても貧しい。だから多くの外国人が米を寄付している。ブラザーも近くの店でできるよ」と毎度の案内人が言う。

寄付か…。もう持ち金にあまり余裕はないのだがどうしよう、ここは適当に流しておきたいな。と思っていると、これまでほとんど何も喋らなかった助手席のおじさんが「おぉ、それは良い考えだな!」と会話に入ってきた。おじさんは、やけに調子が良さそうだった。



男たちによれば数年前に起きたサイクロンにより、この辺りはヤンゴン周辺のなかでも最下層の人たちが暮らしているという。内心、もしナルギスのことを言っているとしたら15年近く前になるがそんなことあるのだろうか、いやそのくらいの被害だったのか?と考えていた。

サイクロンの被害で亡くなったという人たちの墓地。

墓地の前で道が途絶え、車を停めて集落の暮らしを一通り見回った。
バラック街が連なり、集落の人と思われる人は近くの濁った池から水を汲み取り家の方へ担いでいっていた。メーソートでNGOに同行して困窮地帯を訪れたがそのときと比較しても遜色ない。貧しいのは間違いないだろうし、お米を少し寄付するくらいなら大きな額じゃないだろうと思い「じゃあ、少し米を寄付するよ」と伝え近くにある米屋へ向かうことになった。

が、振り返ってみれば私の推測ではこの米屋も愉快なダークツーリズムツアーの運営側だ。もちろん真相は闇の中である。



さて、一同は白い米袋が何段も積まれた小さな小屋の前に到着。早速中に入り、値段や米の量を確認してもらう。寄付すると言ってもこうして何に還元されるか分かるのは良い。値段も10000チャット〜で済むだろうか。

私の見通しはとんでもなく甘かった。実際ヤンゴンで米がどれくらいの相場になっているのか分からなかったが、一袋で200,000チャットだと男たちは伝えてきた。

何かの間違いではないかと思い再度確認するが、値段は変わらない。
私は通訳兼案内人の若い男に、「高すぎる、私は金持ちじゃないからこんなに払うことはできない。また次来たときにはするから今回は無理だと伝えてくれ」と金額が高すぎることを誇張気味に表現した。

だが男たちはその後も「袋の半分でも良い」「いくらなら払えるんだ」と執拗に米を買うように求めてきた。私はこの時点になってようやく、何かおかしいということに気づき始めた。

この後はもう行き先が決まっていないらしいし、夜が近い。早いところダウンタウンに戻ろうと思い、「また今度」を繰り返す。

すると何やら米屋のオーナーが怒っているらしい。
確かに寄付すると言って一文も払わなかったので申し訳なさはあるが、怒るほどの失礼をしたつもりはない。

「次ヤンゴンに来た時には寄付する。この街のことはきちんと覚えているから、そう伝えてくれ」と逃げるように私が言う。ところが助手席の男は「金がないならおれが今払って、ダウンタウンに戻っておれに返してくれれば良い」などと言い出す。

もうこれ以上余計な面倒なことになる前にダウンタウンに戻らなければならないと感じ、案内人に車に乗ろうと促した。なぜか案内人の男だけは、私の意見を聞いてくれていたので助かった。ドライバーと助手も不機嫌そうではあったが車の座席に腰をつけた。やはり彼らは即興のチームなのだろう。

港へと戻る帰路の車内は、誰一人一言も発せず重い空気が漂っていた。私はこの先何かまずいことが起きそうな予感と、ひたすら金を求めてきた米屋と案内人たちに対する不信感で満ちていた。逆に男たちは全く金を出さない日本人に苛立ちを覚えていたはずだ。

ダラ地区の集落でカメラに興味を示した少年。
何度か話しかけてもあまり返答はなかった。


どこかに寄ることもなく港へ直行して到着。待ちに待ったお会計が始まる。ここからこれまでに幾度もあった違和感、不穏なやり取り、嫌疑感がすべて的中する。

まず、男が伝えてきた金額は300,000チャットである。
1時間弱ほどしか走らせていないにも関わらずこの金額を提示され、一体何を言っているのか分からなかった。
このときの愉快なダークツーリズムツアーの面々は、下記の通りである。

・・・「No,too expensive」を繰り返し、怒っているフリをする。

ドライバー(オーナー)・・・眉を寄せ、顔をしかめている(恐らく私と同じように怒ったフリをしている)

助手・・・オーナー(ドライバー)が怒っていると急かしてくる。

案内人兼通訳の若い男・・・なぜか私とドライバー・助手と板挟みの状態となり、困惑した顔をしている。

これでは埒が開かないが、私も引き下がるわけにはいかない。「ちょっと待て、タバコを吸わせろ」と言って苛立ちを演技する。もちろん実際に苛立ってはいた。

多少の効果はあったのか、通訳の男に「もっと値段を下げろ、おれは金持ってない」と伝え続けると、270000チャットになった。

だが、それでも充分ぼったくりの値段だ。
私は依然として「too expensive」を崩さない。その姿勢に押されたか、250000チャットになった。だが、助手曰く、「これ以上は下げられない。もうこれで払えとオーナーが言っている」とのこと。
終いには、「ダウンタウンについていくからそこで金を下ろして払え」だ。

バカ言うんじゃない、これでもどれだけぼったくっているか。そもそも彼らの言い分はこの地区は外国人がいて良い場所ではなく、警察に見つからないようにという特別な対応をしたからだという。ではなぜ「外国人がよく来る」を繰り返していたのかと問いたいが、そんな論争をしても意味がない。

すると通訳の男は、私が金を持っていないということと苛立っている様子を見てなのか、自分もスマートフォンを預けてダウンタウンに行って金を出すと言い出した。

そうだ、確かに元はと言えば彼が案内したことが原因である。
しかし、私は馬鹿正直にこの案内人のことだけはまだ信じていたのだ。もし彼もドライバーたちの仲間だったとしたら、こんなこと言い出さないだろうと。
だから少し悪いなとそのときは思ったが、本人がそう言うならばと思い、彼の提案に乗ることにした。

一触即発しそうな空気を打破するように案内人の男はスマートフォンをドライバーに渡し、私も150000チャットと予め持っていた23USドルを払うことにした。
だがその20ドルは右端が切れている。ミャンマーでは使えないと思っていたのだが、USドルを見てドライバーたちは嬉々としていたので何よりだと思い、足早にフェリー乗り場へ向かった。


ダラ地区側のフェリー乗り場前。
(集落へ向かう時なので日は明るいが、帰りの際は人も少なく不気味な様子だった)


ようやく解放されたと思ったのも束の間、助手の男が走ってきて「このUSドルはここが切れていてダメだ、他のやつを持っていないのか」と口走る。

「あ、バレたか」と同時にまた先程のやり取りが始まるのかと辟易した。
もうこの会話が億劫になったので、「はい、じゃあこれでいいだろ!」と50000チャット投げやりに渡した。
男は金持ってるじゃないかとでも言いたげな顔をしたが、「もうこれで終わりだろ?バイバイ」と私が言うと背を向けて街へ戻っていった。

案内人兼通訳の男と2人で帰りのフェリーへ乗り、私はまたタバコを吸う。そして「クソヤロー!」と叫んだり、ため息を何度も吐きだして鬱憤を少しでも晴らそうとした。案内人の男も辛そうな顔をしていたので、普段は吸わないらしいが1本渡す。

「ごめん、君のスマートフォン取られたままになっちゃった」と詫びると、男は「別に大丈夫だよ、それよりも笑顔笑顔!」と励ましてくれた。スマートフォンも安いわけではないだろうに、なぜこんなに彼は落ち込む様子が伺えないのかと猜疑心を抱くものの、確かに落ち込んでもお金は返ってこない。ただ、これで元々金欠気味になっていた私はマンダレーやバゴーなどヤンゴン以外の街は行けなくなってしまった。

ダウンタウン側の港へ着き、タクシーを呼んで彼とも別れを告げる。スマートフォンをなくしては不便だろうとタクシー代を渡そうとしたが、断られた。「父親のスマートフォンがあるから、何とかなるよ。それよりまた会おう、この番号にかければ繋がる」と父親のものだという番号をメモして私は1人でタクシーに乗った。

その後はホテルへ戻ってフロントのお姉さん方に、「金を騙し取られた!」と少しでもストレスを発散させる私。部屋に戻ってベッドに思いっきりダイブし、一連の事件を振り返っているといつの間にか眠りについていた。

翌朝、これは現実なのか…と再度落胆すると同時に冷静に思考を再開させる。そして迷探偵はようやく、ようやく状況を理解した。

「そうか、そういうことか…」

私は最初から騙されていたのだ。
あの男は元々運転手たちとグルで、公園にいたカモを確保するや否や連絡を取っていたのだと気づいた。そう考えると全て辻褄が合う。

自分の警戒心の甘さと愚かさを呪った。
これは推測でしかないが、私がスーレパコダ周辺で一眼カメラを使っていたときからこの男に目をつけられていたのだろう。各地で写真を撮る際や撮り終えた後は、その都度誰かに尾行されていないかを確認するようにはしていた。が、素人程度の尾行確認はほとんど意味をなさなかった。

知らない人、知らない土地で外国人一人。本来は親の教え通り「知らない人にはついていかない」を遵守するべきだが、それ故に付いていってしまった。

不可解なのは若い男は最後まで私と一緒に騙された振りをしていたことだ。別に一々タクシー代を拒んだり、スマートフォンを預けたりしなくても良いだろうに。ただ、スマートフォンは彼らがグルだからいつでも取り返せるはずだ。私を欺く為のパフォーマンスだったとも考えられる。

即興のツアー団体が故に、彼(案内人)が少しでも罪悪感に苛まれてそうした行動を取ったのだと考えるのは、やはり私がカモだからだろうか…。


「アホだ、アホ!!」

別の日、一連の話を駐在する日本人社長のおじさんに伝えたときの言葉が今でもチクリと思い出される。

※実は上記の事件以外にも、私は騙されかけた一件があった。もうダラダラと書きすぎたので、省略するが自分のことを「カモ」と自虐的に書いているのはそれ故である。どこかのタイミングがあれば書きます。


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