見出し画像

心地よい風を

先日、よく行く鎌倉にあるお気に入りの神社に行ってきた。もう何度も、思い付いたらその場所に行く、というのがお決まりのパターンになっているのだけれど、はて、どれくらい私は行ったのだろうと、過去を振り替えってみたら、今回はなんと一年ぶりの参拝だった。「ついこの間」という感覚が強かったのどけど、前回の参拝は遡る事一年前であった。鎌倉は海も山もあり、田園風景なんかも見られて、故郷へ帰ったかのような安心感がある。春特有の「土の匂い」もあって何かが蠢いているようなそんな感じがあった。

やはり形式通りのお参りはするのだけど、目的は「その場所に行く」という事なのかもしれない。その神社の中のちょっと座れるところに腰をおろして、おもいっきり神聖な空気を身体中に取り込んでみるのだ。といっても、これだ!とわかりやすく神聖な空気を感じているわけではないけど、その場所の風を感じて、深 呼吸して、満足して帰ってくるわけである。今回はちょっと疲れていたのか、自分に「集中集中」と言い聞かせながら、何時間もその場所に居座ってしまった。欲張りな私に神様もきっと呆れてしまったに違いない。

スピリチュアルな話で、ハイヤーセルフと繋がっている状態というのがあるらしいのだけど、そういう時は自分の直感力が強くなっている時みたいである。「ゾロ目」も直感力が強くなっている時に良く見るものなのだろうか。今回の参拝の後も「ゾロ目」のオンパレードだった。「良かった、見放されてなかった」と謎に安心しながらも、1111やら8888やら2222やら、555やら、なんだか繋がっているというよりはやたらと賑やかな帰り道になったような気がする。

なんだかうまく説明できないのだけど、カッコいい言い方をすると「風の記憶」というようなものであろうか、風を感じる事ができると何か良いことがあるような気がしているのだ。自分の中にある「特別な領域」みたいなものと繋がるということなのだろうか。そう思うようになったのは最近の事なのだけど、過去をふりかえってみても良いことの前にはフワッと風がふく感覚があったような気がする。

買い物に出掛けた先で、なんとなく気になったお店に入る時にフワッとした風を感じると、自分の求めていたちょうど良い塩梅のものが見つかったり。決定的な何かがあるわけでないのに、この人好きかも、と思う瞬間に心地よい風(空気?)が流れこんできたり。(その人とは結果お付き合いすることになった)。

そういう直感力をやはり自分は大切にしていきたい。そしてその直感が働くのはだいたい「ペースダウン」の時が多いかもしれない。私は基本的にかなりのスローペースなのだけど、「焦り」みたいなものもいつも付きまとっていて、どこか鼻息荒い前のめりな自分がいるのである。ようするに突っ走ってしまう時があるのだ。そういう時は大抵回りが見えていなし、何かを感じる余裕もない。昔はもっと疾走感を強く持っていた。ある時期から全く走れなくなって(引きこもりのような時期)、今はまた「走り出したい」気持ちをもて余すようになった。

今も神様のメッセージは「ゆっくりゆっくり」なのかもしれないと思う。傍目にも分りやすく焦っているのか、そういう時は色んな人から「ゆっくりでいいよ」と言われる事がとても多い。それを素直に受けとれないところも正直あるのだれど、結局は「ゆっくりゆっくり」がどこかで腑に落ちているような気がする。

私はもしかしたら色んなものをありのままに見たり感じたりするのがどこかで怖いのかもしれないと思った。綺麗な世界も汚い世界もまわりの色んな複雑な感情を感じて受け止めながら、前に進む自信がないのかもしれない。もちろん、まわりの世界というのは「鏡」なわけで、自分の心が映し出したものである。それでも、ちゃんとまわりの景色を丁寧に感じながら、ゆっくりゆっくり自分と向き合っていけたらいいなと思う。綺麗なものも、汚いものも色んなものをそのまま感じられるような心の豊さが今の私は欲しいのだ。

心地よい風がふくのは突然におこる。何の前触れもなく。煩悩とは遠いところで、それは感じる事が出来るのではないかと思う。力まず、肩の力をぬいて、それでも歩みを止めることなく探し続ける中で、突然それは訪れるものなのかもしれない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?