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相対主義につける薬

10代の頃の3分の1くらいか、自分は他人が怖くて仕方がなく、部屋に引きこもっていた時期があった。

リアルな状況で何かを経験して理解することからも、他人から直接自分に向けられた話を聞くことからも永らく離れており、頭だけで理解した気になることに慣れた後遺症か今でも「何の意味があるのか」よく分からなくなってうつろになってしまうことがある。

他人がやっていることも自分がやっていることも、そこに何らかの意味は見出されているのだけれど、そんなものはいくらでも疑いようのあるものであって批判された程度で感情が揺らいでわざわざ守らないといけないものである。

「守る」時点で守っているものはもはやひとつの対象であって、相対化されうるものであるはずで、どこかで矛盾を起こしたり矛盾のないように何かを無視することでしか保てないものなのだから、そんなものに意味はないしそれ自体を手放した方がいいじゃん、と思っていた。

他人から見たらどんな私にとっての「意味」もくだらなく無意味に映ることはあるだろうし、その「意味」を批判せずに承認してくれる島に永住するのだって空虚なことだろうと思うし

要は疑いようのないものなんてないんだから何やったって、考えたって無駄じゃん、と嫌でも考えてしまい身体の力が抜けてしまう。

同様に自分のことをいくら分析したところで、あらゆる説明のなかでもみくちゃにされるだけで信用できそうなものはひとつも見つからなかった。

信じるものは人それぞれなのは当然だけれども、その前提でなぜ何かを信じられるのかよく分からなかった。

なぜこういう事態に陥らずに、つつがなく生きていける人がたくさんいるのだろうとずーっと考えている。

つつがなく生きていけるのは自分とは違うものから目を逸らしているからだろうと恨みがましく思ってみたりもしたことがあるけれど

それよりも自分にとって重要な関心事は、自分が陥っている相対主義的な考え方に自分でうまく反駁できず、どこかおかしいと分かっていてもどうしようもできないことだった。

最近になってようやく「腑に落ちる」解答を現象学のなかに見つけたので、同じようなしんどさの中にある人がいれば、何かのキッカケになれば嬉しい

端的に言えば、日常のあらゆるシーンで、『「わたし」がある感覚や意味を受け取った』という事実はどう頑張っても疑いようがないのである。

もちろんそういった自然に湧いてくるようなものに後付けで意思や動機を説明したり、合理化や否認をしたり、若しくは「この感情はほんとうに自分の感情か」と方法的懐疑にかけてみることはできる。

けれど、『「わたし」がある感覚や意味を受け取った』という自明性を帯びた事実は無効にはならないし、それはまごう事なき自分の一部である。

それでもって、その事実やそれに対して「わたし」が行う一連の行為は、「わたし」という立場に立脚してものごとを感じ、考えていることの証左でもある。

相対主義だってひとつの立場であって、ニヒリスティックに何かを考えるとき、またシニカルに他人のことを考えるとき、自分の身体はどんな感覚・感情にあったのか、そしてその信念体系はなぜ他人ではなく自分にとって自明性を帯びているものなのか、ということが「意味」なるものよりも問題になる。

自分はあまり考えたくないような怒りだったり恐れだったり、そういう自分の感覚のことを考えてもよく分からなかったし混乱したけれど

それ自体、もっと言えば相対主義の隘路に迷い込んでしまっていたことは、なぜそうなったのかは仮説しか立てられない過去のことだけれど、身体を殺して頭だけで考えないといけなくなるような理由があったのだろうと思う。

字面ほど仰々しいことではなく、形は違えど誰にでもあることだと思うし、否認や合理化エトセトラ…をしない人間はいない。

あくまで自分の話だけれど、そりゃあ人と同じものを好きになれず、かと言って他に心から熱中できるものもなく、実存とも向き合えないのなら価値相対主義をやるしかないと思う。

ただいつかはなんとか具体的な状況で自覚をして違う選択をしないと、意図せずにあるいは悪癖だと頭でわかっていても反復され続けてしまう部分があって、その為には「何の意味もない」ことを否定できる基礎づけが自分の場合必要だったという。

あらゆる「体験」は自分の一部であって、中でも印象的なものや反復されているものは再帰的に理解される「自己」のひとつの側面である。

自然に湧いてきて反復されるものは制御できないかもしれないけれど、それをどう料理するかというのは「主体性」の出番であって、自然に湧いてくるものやその「客観的説明」に自分をすべて決定されてしまう必要はない。

自分の全体像というのは、いつまでも未解明で、全体を身体で理解しようとすればするほど全体が膨張する、宇宙のようなものだろうと思う。

構造主義的に説明されるような固体としての人間像は、固体は固体として確かにそう説明されるように存在していると思うけれど、固体は固体でも氷のような、つねに流体になり得る、それでもってまた別の形の固体になり得るような「状態」として理解されるのが望ましいし、それが決定論や「分析」と称した冷たい理解よりも「現実的」だろう。

イヤホンを外して風にゆれる街路樹や自分の歩く足音に耳を傾けるように、外側のことではなくて自分自身の感覚に目を向けてみることは、自分という全体に一歩踏み出しているということだ。



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