「上方排除」について

「上方排除」という社会学のことばについて、度々日常生活で思い出すことがある

確かこの本

誰かが誰かを権力者だとみなして振る舞うことで、「権力者」にされている人は、否が応でも「権力者」として見られてしまうという現象である

たとえば、ひとりの人間として怒ったり意見をしたつもりでも被害的に捉えられてしまったり、関係性の中にパワーゲームを持ち込まれることで、権力者として過剰に美化されたり、命令のように話を聞かれたり、その場で反論をもらえなくなったりして、水平関係で話したくてももはやどうにもならなくなってしまうようなことだ

権力者があらかじめいてそこに人が従属するのではなく、権力者を見出すことではじめて従属が可能になるのであり、その過程で、ある人は水平関係からは閉め出されるのである

「上方排除」による状況定義のズレやディスコミニュケーションの積み重ねが、加害ー被害関係に取り込まれていく例に、過去に当事者として参加していたことがある(加害者でも被害者でもない立場)し、自分自身たぶん音楽やら社会学で「先輩」として「上方排除」されることによって話がうまく通じていないと感じることがあるので、関心がすごくある

最初から「権力者」ー「被権力者」という構図が持ち込まれ、それが静的なもの(当たり前)であるとみなされており、「被権力者」である人の「特殊な反省」なくしては一生垂直関係で会話するしかないという難しい関係性である

「被害者性」が持っている免責性もここに少なからず関係があると思うけども、今の自分が扱うには複雑すぎるし、ケースによってまるで違いすぎると思うので一旦取り置いておき

関係性にパワーゲームを持ち込み、再生産するのは従わせる側だけでなく、従う側によってもあるし

ほんとうは直接伝えればよかったはずの、友人関係であれば簡単に伝えられるはずの意見が、ゴフマンの言うような「舞台裏」、つまり権力者がいないところで、被権力者間で行われ、本当のところをお互いわからないままで対立構造が膨らんでいくという事態に直面した立場からすると、パワーゲームへの安住を手放さなければいけないのは、しばしばパワーゲームに巻き込まれていると感じている側であるのかもしれないと思う

たまに自己投影の話とかで、「誰かが支配的に見えるのは、自分が支配的であるからである」というのを見かけるけれど、まさに自分のことだと思う

他人のことばかり気にしていないで、自分のワクワクすることにアンテナを張り巡らせていた方が、たぶん気付かぬうちに色々な人と水平に関わることができるし、その方がノンストレスな世界に住めるんじゃないかなと思う

手放した方がいいものが、手元に沢山あると思う

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