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上妻世海×宇野常寛-思想としての遅いインターネット-を読んで

今日はnoteを書く手がすっごい進む。
この記事はぼくが読み進めるにつれ、更新されてくので暇だったら見るんだぞきみたち。

当該webサイトは下記URLへどうぞ。

https://slowinternet.jp/article/20200406/






この対談、2人のものすごい情報量が押し寄せてきて解読して解釈するのに少し時間がかかる。いまぼくがもてる学習能力と読解力をフル活用したらやっと断片を理解できる(ような気がする)。

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-気になった部分-(文体などは原文通りでないのであしからず)

・情報技術は日常と非日常の境界線を取り払った

→若干17歳(5/12で18になるから祝ってね!)

のぼく、最初はこの文章に違和感しかなかった。日常と非日常の境界線…?ディズニーランドと通学や家での食事の境界線がなくなるってどういいことだ?ほどなくしてこの違和感の正体がわかった。ジェネレーションギャップだ。

いや、これは文脈上、正確ではないかもしれない。けれど生まれて物心ついた頃から情報技術に囲まれてSNSやスマートフォン、PC、テレビを身近に感じ、使ってきたぼくたちにとっては非日常を感じることは当たり前になっていて、それに飲み込まれているのかもしれない。

日常→家での時間、通学、学校生活
非日常→ドラマ(学園モノ、ロマンチックなラブストーリー(本文では対幻想という言葉を用いて表していたような気がする))、戦争映画 など

こんなようなものが日常での時間に、濃密な情報量を孕みながら溢れ出てることに気付かされた。きっと縄文人は遠く離れたあの場所で起きているロマンチックなラブストーリーを見ることも、そして聞くこともなかっただろう。
昭和の時代(ぼくは生きてないから詳しくは知らないが)、緻密に描かれた映像や音楽を体験して、現代のように自分の日常に取り込みはしなかっただろう。

そして本文にはこうある

このあたらしい世界に耐えられないと、閉じた相互評価のネットワークの中でのポイント稼ぎに夢中になり考える力を失う。あるいは、安定剤代わりにイデオロギーに回帰して、やはり考える力を失う。

ぐぬぬ、否定できない。きっとこれを読んでくれてるやつらも1回はこの負の世界に入り込んだことがあると思う。
本文ではそうならないために、理想論ではなく、日常の延長線としてあるべき現代の「主体」についても軽く(ぼくにとっては軽くないが)述べていた。まだまだ咀嚼して飲み込みつつ、自己の無意識と対話する必要がありそうだ。

Twitter 柊@hiragisand

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