「発言しやすい雰囲気」にまつわる違和感と、コミュニケーションスキルの話

IT 業界の会社さんとはカジュアル面談という形を中心にちょいちょい会話をする機会があります。それなりに多くの会社さんとお話しする機会がありましたが、まっとう(主観)な会社であれば「良い文化」の形成に一定以上の価値を置いている感覚があります。良さの定義は人それぞれあろうかと思いますが、おおよそ共通しているのは以下のようなところかなと思っています。

・心理的安全性
・オープンで風通しのよい文化/誰もが自由に意見できる/発言しやすい雰囲気がある
・エンジニアの裁量を認める
・自主性、オーナーシップを重んじる
・挑戦を歓迎し、試行錯誤を推奨する

※これらは私が好む軸でもあり、またそこに合致するような会社の人とお話しする機会が自然と多くなるため、これが IT 業界全体の傾向とは必ずしも言えないないことを添えておきます

「心理的安全性」という言葉とよくセットで見聞きするのが、箇条書きの2番目の内容です。

「意見・発言がしやすい雰囲気」という言葉は割と聞くような気がしますが、以前から私はこの言葉に違和感がありました。なんとなくその違和感を整理しつつ、コミュニケーションてどうしたらいいんだろうねという与太話を書き連ねてみようと思います。

自己紹介 +α

こういう者です。おおむね SIer のエンジニア職といったところです。

株式会社サーバーワークスのコーポレートエンジニア
・普段の業務は社内ツール、内製システムの保守や機能改修など
・会社的にはリモートワーク推奨中で普段はほぼ100%自宅勤務
・裁量労働
・30代前半の男性

また、私のパーソナリティとか、自社環境に関する認識はこんな感じです(以下)

・周囲の顔色や空気感は割と気にする
・「恥」を恐れる気持ちがとても強い
・自己肯定感は低い(今は多少軽減したものの、かなり長い間自分に対する自信が極端になかった)
・自社の環境は「意見が自由に言いやすい方である」と認識している(とてもだいじ)

最後のやつは大事なので予めご承知いただきたいです。100% とは言いませんが、今回の観点において自社環境に不満はありません。この場で自社の不満を言いたいわけではないのです。
※また、"100% 理想的な状況" がどのような状況なのか、私にはわかりません。「言いやすい方である」と濁した表現をしているのはそのためです

自分自身は「自由に意見を表明できるメンタリティ」が形成されるまでに結構な年月を要してしまったし、それで損したとも感じています。これから社会人デビューする後輩には同じ道を歩んでほしくない。どうあればいいのかな?と思ったりもしますが、しかし会社の Slack にポストできるほどまとまった見解も持っていません。note で雑多に書き出してみたら、もうちょい整理が進むかな?
......と、そんな感じのモチベでぼんやりキーボードを叩いています。

何が違和感なのか

違和感を感じるシーンは、例えば新入社員に対して社歴のそこそこある先輩が「ウチは誰でも自由に意見が言える場所だから、遠慮なく発言してね」的なことをチャットツール上で喋っているような、そんなシーンです。
(以降は主にこのシーン設定を引き合いに出して話を進めます)

そのように伝えること自体はまったく問題ないです。自分が入社したのがどういう場所なのか、新入社員のみなさんは知らないわけなので。どういう文化の場所なのかを表明することは必要だし、意義ある発言だと思います。

ただ、本当に新入社員に遠慮なく発信して欲しいと願うのであれば、それだけでは終われないような気がします。なんとも言えない収まりの悪さを感じています。

その違和感を例えるならば、それはなんだか「本当に優しい人は、自分のことを優しいとは言わない」みたいな。そんな感じです。

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緊張している新人の発言ハードルを和らげる目的で「ウチは何でも言いやすい空気だから」発言をするのであれば、おそらくそれは社歴の長い人が言っても意味がないんだろうなと思います。

土地勘のない場所に放り込まれて、どこに危険地帯があるかもわからない状況で、よく知らない先住民たちに「大丈夫、安全だよ!」って言われて鵜呑みにしますかと。

受け入れ側のスタンスを明示するためなら別にいいんですが、発言を促す目的だとすると「安全だよ!」って言われても言われた側が行動を変えるのは難しいですよね。なぜ安全なのかが說明されておらず、納得しづらい。

知らないことが多すぎる環境に身を置かれている以上、新人の立場としては不安感情からくる防衛本能の方が優位になりそうです。そんなときに安心できる材料って、たぶん「先住民による安全宣言」ではないんだろうなと。

不安感情が強ければ、防衛本能を優先するのは自然な結論です。不確かな環境から身を守るために口をつぐむ、あるいは何もしないという判断がその人にとっては合理的であろうと思います。

どうすれば変わるのか

意見の表明ってものすごくエネルギーを使う行為で、的外れなことを言って恥をかくことや、でしゃばりすぎたことで不特定の誰かから呆れ・失望されたり、そういう恐怖を乗り越えた上で初めて自由に「意見」を述べられれるんだろうなと思います。特に、自分に自信が持てなかったりするとより顕著でしょう。

乗り越えるためにはいくつかハードルがあると思います。思い当たる要素を書いてみます。
(ハラスメント、あるいは反社会的、差別的な発言などは問題外です。それらに類する発言はしない前提です)

・(そのコミュニティにおける)自己肯定感
・(そのコミュニティにおける)土地勘を得る
・(そのコミュニティにおける)先住民の人となりを知る
・アウトプットした結果がいかなる反響を伴おうと、自分の名誉は傷つかない、あるいは不利益を被らないと確信している
・アウトプットによって得られるフィードバックを重んじる価値観
・自分も周囲も間違う(主張にせよ、表現にせよ)、そんなときもある、という理解
・前提が異なる他者である以上、お互いに「100% 理解できる」ことなどありえないと理解する

発言する本人のメンタリティに依存する部分が大きいような気がします(本人次第という意味ではなく、本人のメンタリティをいかにケアするかという観点も含まれます)。発言者が「安全」だと思えるようになるためには、これらの課題をクリアするアクションが必要なのだろうなと考えます。

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先住民(先輩社員)の立場で考えてみます。

まず必要なのは「どうしてこの場所が安全と言えるんですか?」という疑問に回答することじゃないかなと。具体的に何かを說明するイメージで考えると悩ましいですが、一番良いのは普段の先住民の振る舞いや言葉遣いだと思います。きちんと実態の伴う文化として「自由に意見できる」のであれば、いろんな先住民と挨拶して会話していれば自ずと警戒は解けると思います。

また、慣れない場所では警戒心を強めたり、おとなしく振る舞ったりする気質が強い方もいるでしょう。
でしゃばった(と周囲が認識した)ことで痛い目を見た人間というのはいますし、過去に "みんな" から理不尽に爪弾きされて辛い思いをした経験を持つ人だっています(どちらも、私自身が過去に経験してきたことです)。そういう過去を持つ人がこれまでの積み重ねに基づく恐怖の記憶を克服し、自分から打ち解けていくってのは本当に勇気がいることです。簡単なことではありません。そういう人もひっくるめて、より早く警戒を解けるようになるといいですよね。

たぶん、先住民側でできることは傾聴スキルの発揮であったり、相手が何かしら意見を出してくれたこと自体を(内容によらず)まず肯定する言動をするだとか、そういうところだろうなと考えます。結局のところ受け入れ側の個々のヒューマンスキルが大事という話になってしまいますが、優れた文化を持つコミュニティでは自然とこうした振る舞いができる人も集りやすいでしょう。

また、「自由に意見を発信できる安全」が担保されることは、パフォーマンスの観点でも好ましいと考えます。疑問や課題などを自由に言い合えて、建設的な議論を行える状況が、成長や成果の観点で好ましいことは言うまでもないでしょう。それに、心のどこかに萎縮のメンタルがある状態では、なかなか本来のパフォーマンスも出しづらいのではないかと思います。

具体的に、先住民のどのような振る舞いが新人の積極的な発言を促すだろうかと考えてみました。

・素直な気持ちを自己開示する
・発言や意見を受けたときのリアクションに注意を払う(特に、新人から受けた場合)

最初のやつは、理屈的には簡単な話です。「ありがとう」と「ごめんなさい」が素直に言える人は信用できる、って話に近くて、感謝・感心・不安・緊張・謝意などなど、積極的に自己開示ができる人に対してあまり緊張感は抱かないでしょう。先住民が適切な場面で素直に自己開示している様子を示してあげることで、受け手である新人も安心して自己開示できるようになります。そして、自己開示ができる環境ってのは大概居やすいものです。

2つ目はまあ、受け手のリテラシーが試される話です。
新人が何かしらアウトプットを見たら、まずは感謝や称賛の気持ちを伝えること。次に、その発言の Why を理解する姿勢。最後に受け手のスタンス表明や答え合わせコメント、です。
理屈を重んじる相手なら順番を入れ替えても良いと思いますが、基本はここに述べた順番で反応することを心がけます。慣れない環境・知らないトピックを目前にして不安になっている相手に積極的なチャレンジを促したいのですから、まずは「アウトプットしたことがえらい」と認識してもらいたいわけです。その目的に照らせば、「アウトプットという行為そのもの」に対するリスペクトや関心を示す姿勢は(直接的な疑問への回答と並んで)不可欠であろうと思います。
特に、チャットツールで普段やりとりしてる場合は要注意です。簡潔に結論だけを述べることもスキルとして非常に重要なのですが、コミュニケーションの円滑化の意図を持った応答の仕方というのはそうではないと考えます。文面だとかなり冷たく見えますよ。相手はあなたの表情や口調、性格などほとんど知らないのですから、コミュニケーションの目的によって語り口は切り替えましょう。それは先住民としての義務だと思います。

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新人側(発信者)の立場を考えます。アウトプットすることに対するポジティブインセンティブを持つことと、「受け手」としてのリテラシーを考えることがポイントになると考えます。
※ここで言う「受け手」とは、自分の発信に対して発生した周囲の反応に自分はどう受け取りどう向き合うか、という話です

・アウトプットの結果がいかなる反響を伴おうと、自分の名誉は傷つかない、あるいは損をしないと確信している
・アウトプットによって得られるフィードバックを重んじる価値観
・自分も周囲も間違う(主張にせよ、表現にせよ)、そんなときもある、という理解
・前提が異なる他者である以上、お互いに「100% 理解できる」ことなどありえないと理解する

このへんの要素について見ていきます。

> ・アウトプットした結果がいかなる反響を伴おうと、自分の名誉は傷つかない、あるいは損をしないと確信している
仮に、自分の意見が的外れだったり、大勢から反対されようとも、そうなったことによって何ら不利益は発生しないと信じられることは大事です(事実よりも、本人が主観的にそう思えることが大事です)。そうした信念を持てる環境かどうかはこちら側で制御不可能な話なので、こればっかりは運です。
同調されない意見を言うことで何らかの不利益が生じると誰かが感じている場合、おそらくその人にとってその環境は心理的安全性が低いです。それは同調圧力が強い、ってことあり自由に発言できる環境とは別物ですからね。

> ・アウトプットしたことで得られるフィードバックを重んじる価値観
アウトプットする人にとって一番つらいのはノーリアクションです。辛辣なフィードバック、ではありません。私がこれに気づけたのは最近になってからです。ここ数年で社内外のプレゼン機会を増やすようになって、ようやく実感を伴って理解できたような気がします。
「意見」にしても同じで、(よほどアレな反応でない限りは)リアクションが返ってくる時点でなにかしらの情報量を得ているわけで、それは利益です。利益だと納得できていれば、発信することへの抵抗感は減ります。
(余談ですが、学生時代の、卒論・修論を提出する頃にこのマインドセットはありませんでした。本当に、当時のうちに身につけたかった)

> ・自分も周囲も間違う(主張にせよ、表現にせよ)、そんなときもある、という理解
こういう意識を持っておかないと他者との相互扶助的な関係構築は難しいですね。間違いに不寛容なコミュニティって息苦しいだろうなと思いますし、たぶん自由に意見なんて言えないと思います。何かに挑戦する意欲も失われるでしょう。自分の首も締めます。不寛容な他人を見ても、自分がそこに倣うことのなきよう自戒しましょう。

> ・前提が異なる他者である以上、お互いに「100% 理解できる」ことなどありえないと理解する
人の数だけ前提の違いがあるわけで、自分のものさしで相手を推し量ったところでわかりあえないことはいくらでもあります。無理してまで「わかりあう」ことを尊ぶ必要はなく、ありのままを受け入れるメンタルが必要なのではないかと思います。「自分に賛同はできなかったが、相手には相手なりにXXXという意見を持っていることは理解した」ということです。
議論でどれだけ喧嘩しようが、そのことと相手の人格、能力、あるいは好き嫌いの判断は全くの別問題です。そのへんをきちんと弁えることが大事ではないかと思います。
そして、「なぜ相手はこのように考えたのだろう」という背景を知る努力を怠らないことも重要です。相手を知る努力を怠って「自分には自分の意見がある」とのたまう姿は "意固地" や "傲慢" と紙一重です。勘違いした愚か者になってはいけない。相手の都合や背景を知れば、一見理解に苦しむ主張も、その人の利害に照らせば合理的判断だったことが理解できるかもしれません(そういうケースは実によくあります)。

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思うに、「自由に意見できる環境」や「自由に発言する行為」というのは意識的な取り組みの積み重ねと各々の理性的な判断の上で、初めて健全に成り立つものなんじゃないかなという気がしています。

不安感情を払拭するのは難しいから、払拭に足る根拠や体験を先住民が見せていくしかないんだろうなというのは感じます。先住民であるメンバー個々人が行う普段の些細な言動の積み重ねを見て、新人は自身の最適な身の振り方を学習していきます。
先住民の方々。ちゃんと、己に恥じない言動・振る舞いをしていますか。社歴にあぐらをかいて、手抜きのコミュニケーションをしてはいませんか?(なお私は自信がありません)

...逆に、慣れすぎた個人が「自由に言い過ぎる」パターンもよくないと考えます。「ウチでは自由に意見が言える!」という状況にあぐらをかくような振る舞いが増えると、そのコミュニティを「自由に意見が言えない環境」と感じる人は増えていくんだろうなと。このへんはうまく言語化できませんが、、、なにかしらの異論とか、波紋を呼びそうな意見を投下するなら、その自覚を伴って発言する方が謙虚に振る舞えるというか。そんな感じです。

どれだけ自分が打ち解けているつもりでも、そこに全乗っかりした振る舞いをするのでなく、「程よく他人」な距離感を弁えて振る舞うようににするとか、そういう心がけが重要なのかなとぼんやり思います。

外からの見分け方

求職者の立場だと、中の人が言う「話しやすさ」が本当かどうかを見分ける方法を知りたくなると思います。

私自身は「カジュアル面談を1回やれば、アカン会社はだいたいわかる」くらいの感覚なのですがここについてはあまり知見というか考察を持ち合わせていません(転職未経験ですし)。

なので知見を得たらまた別の機会に考察してみたいと思います

まとめ?

結局何が言いたいのか、結論もストーリーも何もないままだーっとここまで書いてしまいました。

「中の人」側の人間が「この会社は風通しがよくて、誰でも自由に意見が言える場所だよ」的なことを言うのがどうも違和感だったんですが、それが真実であると証明できるのはどうやら日々の積み重ねであるという結論になりそうです。証明するために中の人ができることは「日常のコミュニケーションの中で判断してくれ」と伝えるぐらいなのだろうと思います。
一方で、採用イベントや入社オリエンなど、中の事情を知らない人に自社の文化を伝えるには掲題のような言葉を使わざるを得ない。そして、それをその場で証明することも難しい。難儀ですね。

後半部分に関しては、雑にまとめると結局文化を維持する努力と個々人のヒューマンスキルだよねぇという感じでした。
自分としては、「 "ほどよく他人" の距離感」がキーワードかなと思ってます。距離をわきまえて、適度な礼節とリスペクトを払い、意見の衝突にも上手に折り合いをつけ、他人である相手の思想を知る努力をし、自分も伝える言葉や表現を選んでいく、そんな感じです。

コミュニケーションって、面倒くさいですね。

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