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PCはやっぱり要る

PCが欲しい

以前の記事で「PCが欲しい」と書いたが、相変わらず欲しい。
躁なのかも?と思っていたが、躁の機運ではない今も結構欲しい。
躁っぽいときに1度と躁っぽくないときに1度、合計2度店にPCを見に行くほどには欲しい。

問題点1:やりたいことがない

物を買うか決めるときに一番重要なのは欲しい理由だと思うが、私がPCを欲しい理由は明確ではない。なんか欲しい。あったら使うと思う。
正確に言えばやりたいことはあるが、絶対的にやりたいことではない。「PCがあったら月に2回ぐらいはその用途で使うかもしれないけど、なかったらなかったで別にやらない」ぐらいのやりたさしかない。実際今やっていないのだし。
「月に1回使えればいいな」ぐらいの気持ちで購入したカメラが月に1回も出番がなく収納されているのを見ているので、PCも二の舞になるかもしれないと思う。

問題点2:邪魔

実はうちにはPCがもう3台ある。あとモニターも1台ある。仕事用である。仕事用だから私がやりたいことにはもちろん使ってはいけない。
そしてこれらは結構邪魔である。配線もごちゃごちゃになるし収納場所も限られるし、仕事で使うから取り出しにくい場所に置くとだるいし、もっと言うと視界に入ると仕事のことを思い出してテンションが下がるので仕事以外のときは消えてほしい。
そんなPCが追加されると思うと私用でもちょっと嫌である。まあ3台も4台も変わらないという意見もあるが。

問題点3:タブレットがある

うちにはタブレットもある。これは私用だ。
キーボードもマウスもあるからPCみたいに使える。なんとなくやりたいことの中にはやろうと思って頑張ればタブレットでできることもある。そこまでしてやろうと思わないから現在やっていないわけで、その程度の動機で高い金を出してPCを買うのってどうなの?という話です。
でもタブレットではできないこともある。プログラムを書いたりとかGitを使って何かを管理したりとか(でも管理したいものはない)だ。それも別にすごくやりたいというわけではない。月2回で十分。

問題点4:視力が悪い

私は視力が悪い。裸眼ではスマホが見えないほどだ。そしてまだまだどんどん落ちている。仕事柄8時間はPCを見ていなきゃいけないのに、この状況でプライベートまでPCを見るか?という問題がある。でもスマホを見ているよりは画面が大きく遠くなるのでマシなのではないかという考え方もある。

メリット1:必要になる予定はある

これだけPCを持つことの問題点を挙げてきたが、必要になる予定はある。親が死んだときだ。
うちの親は余命宣告を受けているので近いうちに死ぬ。その時におそらく私に色んなタスクが降ってくる。そのタスクをスマホでなんとかするのはちょっときついと思う。タブレットも動作にラグがあるのであまり難しいことに使いたくない。また、その際に使用するデータをPCでしか取り込めない形で共有されているので、どっちにしろPCは必要だ。実家にはPCがあるが、タスクをこなすのにいちいち実家にいくのは精神的にも体力的にも時間的にも無理だ。
遅かれ早かれPCが必要になるなら、今買った方が良くないか?使えるし。死んでからPC買ってセットアップしては面倒くさすぎる。

メリット2:暇潰しになる

暇だと人生が虚しいことに気づいてしまうので、暇を埋めたい。それにはPCは好都合だと思う。
暇を潰すなら勉強すれば一石二鳥なんだけど、勉強はしたくない…PCを使って勉強するという手もあるけど、やりたいことですら大してやる予定がないんだから勉強なんかもっとやらないと思う。

結論

結局将来的にPCが要るのだから、やりたいことがあろうとなかろうとできそうであろうとできなさそうであろうと買ったほうがいいと思う。
PCでしかできないやりたいことを見つけられたらいい。作曲はどう?と思ったけど救急車のサイレンとパトカーのサイレンの違いが分からない人間には向いてないと思うし、やりたいわけでもない。

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何かにかこつけて生産をしたがってしまう。まだ生産をしないと存在価値がないように感じてしまう。
どうせ生産するのなら苦しまずにできることを選んだ方がいい。のでこうやってnoteを書いているのだけど。私は文章を書くのが好きなので。
でも個人的な生活の話を書いても誰かの役に立つとは思えないし、かといって役に立つ内容を選んで―たとえばまとめサイトのように―は書きたくない(わがままだな)。役に立たない文章を書くことも生産にいれていいよね?それとも役に立つ立たないは私が決めることではないという理屈を通すか。

「生産にだけ価値を見いだすのをやめる」「役に立たなくても自分が楽しければいいと思えるようになる」が打開策かな。

カウンセリングでも思ったけど、私はすぐ「これには意味があるのか?」と思ってしまう。たとえば朝目が覚めた瞬間に毎回「起きて意味があるのか?」と思う。今起きて次の予定までの時間を埋められるのか?今日という日は起きるだけの価値がある日か?また自分を死なせないように暇を潰さなければいけなくなった、と。受動的だ。常にうっすら絶望の中にいるのだと思う。
日常の様々なことが常に「意味があるのか?」の問いでひっくり返されそうになる。意味がないことができないのだと思うし、厳密に言えば私が意味を見いだす範囲が激狭ということになる。
たとえば「人の役に立たないけど自分はちょっと楽しいこと」は私にとって意味が弱い(と、今日の投稿から読み取れる)。そういえば最近ウィンドウショッピングをするのも意味を感じられなくて虚無感を覚えるようになった。他人軸なんだろうな。自分が楽しく感じられるのならば対外的な損失(金銭、時間、経験など)があっても良いと思えるようになりたい。

(そういえばエブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスのジョブ・トゥパキもこんなかんじの「理論上は全ての可能性があるのに一番”意味のある”可能性を自ら(人生の選択は全て自らの選択なので)選択せず、かといって今選んでいるもので満足もできないこと」で悩んでいたよね。私はジョブ・トゥパキなんだなと観たときに思ったし、映画は私の答えにはなってくれなかった。)

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