虚無
夕飯に食べた野菜カレーは酸っぱくて、ああ、先週から1週間がすぎたのだと気がついた。何もない。
毎日の繰り返しの中でなにを見過ごしているだろうと目を凝らしてみてもなにもなくって、現実味の薄いニュースを時々聞かされてはそれは東京の話だと興味も失せ、車を運転している、決まった道を走っている。
いつも同じ場所で赤信号になる。煙草に火をつける、なんて不自由なんだろう。歩いているほうがずっと自由だけれど、選択肢が増えるわけではないので、仕事のため、日常のため、いずれの生活においても必要充分な生き方を選択している。ついに目はどこも見ていない。
死にたいとは思わない、ただ生活がこれっぽっちもわからない。生きているのは確かだけれど、その価値は無いとずっと考えていて、きっとなにかの役には立っているのだろうけれど、そういうものほど無意味に感じるもので、だから無意味なことのなかに意味を求めてしまう。それが散歩だったり、撮影だったり。
虚無主義的な目で世界を見ていて、実存主義的な行動で世界と関わっている。意味は無いのに写真を撮る。写真にも意味が無くて、その無意味さがそのままわたしの空虚さの表現になっている。その二律背反もまたわたしの虚無主義と実存主義を表していて、わたしは思う、人間とは矛盾の生き物、二律背反を当たり前にしている生き物だと、その本質は意思と本能の矛盾だと。
わたしが信じるものは表現のゆくすえで、普遍的な美のような、存在しないものの話をしている。それは神と呼んでもいいし、それが嫌なら好きに名前をつけてもいい。わたしは無神論者だからその神らしきものに密かな名前をつけていて、その残滓を見つけるために生きているのだと信じ込んでいる。それは虚無主義を脱する方法のひとつで、無意味を受け入れる意味付けの、どうしようもない自己矛盾だ。
人々は幸せだろうか。せめてそうあってほしいと心から思う。幸せな世界であれば、わたしもどうしてか嬉しいから、誰も不幸でなければいいなと思う。そのための努力はなにひとつ思いつかなくても時々ゴミを拾ってみたりする。もはや偽善ですらなく、ただなんとなく、捨てた誰かと、拾うはずだった誰かの人生を想像しながら、そこにわりこんでみる。結果だけで語られれば、いい人なのかもしれないと思いながら、そうしてときどき、町を歩く。誰も知らないわたしの自己満足とともに。
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