2023-12-01 ワンライ

20:36
暗い自習室で一人ぼーっとしていた私の前に、列車が現れる。その列車は特に止まることなく、しかしゆっくりとした速度で目の前の窓の向こうを通過していた。三度目を擦り、二回頬を叩いた後も、長い長い列車はまだ自分の目の前を通過していた。手を伸ばすと確かに列車に手が引っかかって落ちそうになった。暫し電車を眺めていると、なぜかとても電車がゆっくりに見える瞬間があって、その時一つ列車の窓が開いているのを見つけた。私は開けた自習室の窓から開いた列車の窓へ入り込み、その列車に乗った。
ずっと一緒に、と言うことも誰かが消えることも怖がらなくていい、何故なら一人なんだから。列車は緩やかに空へ上がっていく。いつか上がってみたいと思っていた鍵の掛かった屋上が飛び移れそうな距離にあった。でも行かなかった。いつでも一番行けなさそうな場所へ、天に近く地から遠い場所へ、憧れているだけなのだ。屋上がどんどん地になっていく。憧れが憧れでなくなっていくだけで、私は心が軽くなっていった。
ポケットをまさぐる。授けられているだろうと高を括っていた切符はどこにも入っていなかった。私はいるかもわからない車掌のことを考えて、恐ろしいというより寂しくなっていた。切符さえあれば車掌と話していられるだろうが、このままではずっと車掌に悟られないように黙って行くしかないではないか。しかし私は今更車掌なんていないかもしれないことを思い出していた。この列車はどこまで行くのだろう。いつまで経っても寒くも苦しくもならない車両の外側はいつしか雲を超え、より暗い場所へ入り込もうとしている。
いつかのプラネタリウムで見たこういう列車の外側は無数の星で明るく光り輝き、特に十字架なんか理想の天国から持ってきたような眩さだったけれど、近づき、既に飲み込まれているかもしれない闇はただの闇であり、一つの光も見えない。ここは理想の実在など有り得ない宇宙だろうか。それとも理想の闇だろうか。どちらにせよ私は一人で、それは数瞬の間に重たい影を私の体に被せていた。
私は開けっ放しの窓から電車の輪郭を見渡した。この車両が最後尾のようで、先の方は見えないほど車両が連結していた。私は中に引っ込んで、それから席を立って車両の中を進行方向へ走って行った。中の扉を開けては走り、開けては走る。これはいつまでも終わらない作業、そんな確信が自分の中に生まれていた。説明できない幾つもの感覚が自分の中に生まれては消える。扉を一つ開けるたびに日めくりカレンダーを一枚破った感覚、それはティッシュのように適当に引き抜いているのではなくて、確かに一日一日の重さとともに破り捨てているような感覚、そのうち扉を開ける感覚は大切な人を殴る感覚に変わる。それは戯れやちょっとした喧嘩で小突いているのではなくて、確かに殴り殺して捨てているような感覚、一瞬私は止まって扉を開けつつ目の前の連結部にあの十字架みたいな眩さの吐瀉物を吐いた。そしてそれを踏みつけて先に進んだ。扉数枚おきに私はどんどん少なくなりつつそれに反比例してどんどん眩くなる吐瀉物を吐き続け、それをどんどん強く踏みしめて先を急ぐ。汗と涙と鼻水と吐瀉物が色んな所から流れ出て、私は自分が星のように軽くなっていくのを感じていた。私には本当の星は見えていない。ただ光の尊さだけが軽やかに私を撫でるのを見て星の軽さを思っていた。いつの間にか闇が輝いている。先程まで見えていなかった無数の星が、あの日のススキ原よりもずっと輝いて闇を覆い返しているのだ。私は横目にそれを見て泣いた。そして一層軽くなって、まるで列車などないように、空を飛んでいるように駆けていった。無限に繰り返される、これまでの日々によく似た営みは、一等の眩さによって突如終わりを告げた。今までより少し重たい扉を開けた時、目の前は真っ白な幻想に包まれた。一つ一つの光がどこまでも強く広がって、それで世界のどこでも見られないような白さを現しているのだろうと思った。そこは目指していた車掌室で、私はそこでやっと息を吸い込み、顔じゅうを拭いながら吐かずに辺りを見回すことができた。子どもが一人、光の服を着てそこにいた。この子が車掌であり、そして私の子どもであるとすぐにわかった。
「元気?」
不意にそう訊いていた。
「げんきだよ。おかあさんもげんきになった?」
「おかあさん、光、全部置いてきちゃったよ、どうしよう」
笑いながら涙が止まらない私に、子どもは無垢に続けた。
「わるいひかりしかおとしてないから、だいじょうぶだよ。あたしわかるの。おかあさんのなみだ、きれいにひかってるし、だいじょうぶだよ」
悪い光、そう言われて、それがあることを私は了解することができた。光を羨望しなくていい。どうせ全て光なのだから。私は子どもと微笑み合いながら、列車の中が光で満ちていくのを受け入れていた。
21:32
56分13秒

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