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Driven

 午前一時、片田舎の駐車場は地球の影に落ち込んで冷え切っていた。隅の方に一台だけ取り残されている朽ちかけのワゴンは今日もそこにあって、その隣に自分のワゴンをつけて、車中の漠然をやり過ごしながら先輩を待つ。
 時間通りに現れない先輩を待ちわびてカーラジオをつける。知らない洋楽が流れ出す。随分と陽気な曲だった。なんとなく肩から揺らし始めた時に、横の窓を叩く音がした。窓を開ける。

「トランク開けて」

 トランクオープナーを押してから窓を閉め、また曲に意識を戻す。曲がフェードアウトしていくタイミングで助手席のドアが開いて、先輩がするりと乗り込んできた。先輩はドアを強めにバタンと閉めて、その音で駐車場が起きてしまいそうで少し怖くなった。駐車場は死んだように眠っており、ぴくりとも動かない。

「じゃあよろしく」

 ぶっきらぼうな、いつも通りの挨拶を合図に、ギアをドライブに入れてブレーキをアクセルに踏み変える。サイドミラーに小さくなっていく駐車場はついに起きないままだった。あのワゴンも駐車場も、昼は温められていてよく分からなかったが既に死んでいたのだと思った。ラジオは男声の朗読劇に移っていたが、まるで遠い国の言葉のように頭に入ってこなかった。

「これ眠気覚まし」
 先輩がドリンクホルダーにブラックコーヒーの缶を置いたのを横目で見る。
「ありがとうございます」

 インターチェンジの螺旋を抜けて高速に乗る。高速も死んでいるかに見えたが、直線に入るといくつか車のライトが見えた。過ぎても過ぎても現れてくるライトの全てが眩しく光っており、つまりこっちに光を当てていることに気付いてしまった。

「あの車のどれにも絶対人が乗ってるんですよね」
「どうしたんだよ急に」
「いや……そうなんだよなあってだけです」
「そうだな。お前夜勤やりすぎだよ、休んだり昼に変えたりしろ」
「楽して稼ぎたいんで。……先輩もいますし」
「どういうお世辞だよ」

 目が冴えて運転にも身が入る。車がすれ違って消えていくのを軽やかに見送れるようになってくる。コーヒーに手を伸ばすと、先に先輩が缶を取って栓を開けてくれた。プシュッという小さな音がはっきりと聞こえて、憑き物がまた少し落ちたような気がした。渡されたコーヒーを何口分も体に流し込む。痺れ切った冷たい腕に血が通う感覚に似ていた。あの駐車場が起きた確信があって、身震いが起きた。

「エアコン入れたら、もう温まってるだろ」

 ACボタンを押すと、すぐにぬるい風が首を撫でた。先の方に見えてきた大きな吊橋がとてもうねって見えた。自分の心臓が時化ていて、血液が胸に打ち付けるのを感じる。朗読劇は早口な黄色い声のトークに変わっており、逃げ場がなかった。今一度道路のラインを見つめながら口を開く。

「まだかかるんで、寝てたりしててください」
「そうか」
 先輩は特に姿勢を崩す素振りもなかった。
「疲れたら代わるから」
「多分大丈夫です、ありがとうございます」

 先輩の声がいつもより低い気がして、それでかえって落ち着いた。高速の分岐の標識が見えてきて、一度も進んだことのない方の道へ入った。高速はまだ永遠に思えるほど先まで続いていて、それを危ういスピードで少しずつ縮めていく、作業のような、人生の時間だった。

「お前運転下手だな」
「いつもはもっとましなんですけど、緊張してます」
「事故る気で行け。その方が事故らない」
「はい」

 やけに大きい返事になった。先輩はコーヒーを取って一口飲んでいて、喉の鳴る音がよく聞こえた。いつの間にか他の車は見えなくなっていて、誰かの深い眠りの中を飲み込まれないように飛ばす。SAにもPAにも寄らずに走り続けた。先輩も何も言わなかった。

「明日のシフト誰に代わってもらうんですか」
「え? 俺出るよ」
「え、十時からですよね。無理じゃないすか」
「別にいつもろくに寝ないで出てるだろ」
「そうですけど、今日は、違う、じゃないですか」
「同じだよ」

 初めて見る標識を読み切れずに戸惑いながら、それでもなんとか降りたいところで高速を降りる。先輩の案内に従いながら走るとすぐに山道に入った。細く暗い道はゆっくり走らざるを得なかった。

「脱輪したらすみません」
「しないよ」

 先輩の声は不自然に優しく、宥められていると分かった。手に取ったコーヒーの缶は軽かった。中身を全て飲み干し、ハンドルをぐっと握りこむ。先輩が缶を手で潰す。ぺきょ、といったような軽い音だった。

「この辺で」

 くぐもった先輩の声を合図に車を止め、トランクオープナーを押してから降りる。先輩が扉を閉めてバタンという振動が体中に響き、背中を叩かれたようだった。それしか救いがなくて、生き延びるために強く扉を閉めた。バタンという大きな音がした。
 森の空気は冷たく固まっているのに木々は絶えずざわめいており、幽霊の影を感じ続けた。先輩がトランクからスーツケースと大きな袋を降ろし、蓋を閉める。またバタンという音がしたがもうほとんど怖くなかった。それで車にロックを掛けたが、一瞬の音と光がひどく脅威的で、ロックしなければよかったと思った。咄嗟に見た先輩の顔はあまりにも濃い影になっていた。
 先輩がスーツケースを持って歩いていくのを、二本のシャベルが入った大きな袋を抱えて追っていった。きっと今日はもう話さないから、明日会った時に先輩と話せそうな話題を考えていた。

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