その日はあいつと二人で飲み屋をハシゴしてたんです。その日は、っていうかその日も、ですね。恥ずかしながら二人とも恋人がいないもんで、夜な夜な飲みに出掛けては女の子と仲良くなったりならなかったり、要するにナンパ目的です。まあ女の子がいなくても別にこっちは楽しかったんですが、あいつはとにかく女が欲しいって顔に書いてあるくらいでした。


 我々は何時も呼吸から遠ざかる事が出来ない。
    
    

 で、その日のことなんですが、その日はなかなかあいつのお眼鏡にかなうような女の子がいなかったみたいで、すごい勢いでハシゴしてたんですよ。一軒で二杯飲めてないくらい。で、結局いつもは着かないような飲み屋街の端の方まで行ってしまって、最初の店に戻ったらそろそろ女の子来てるんじゃないかな、とか言ってたわけです。そしたら急にあいいつ、「美人の匂いだ!」って騒ぎ始めたんですよ。


    
「はなさかじいさん読み聞かせてるとさー現実でももっとこうならないもんかと思うよね、取ってった人からは後で同じくらい奪えないわけ? そう思わない? ウケるめっちゃニヤついてんじゃん、そーゆーいいことあったん?」
    
    
    
 なんだそれって思って。まあ女の子探すのにかぱかぱ酒飲んですぐ店出て動き回ってたしいつもより酔っててもおかしくないかとは思ってて、でもそんなこと言ってる間にあいつどっか行こうとするんで止めて訊いたんです。「美人の匂いってなんだよ」って。あいつは「俺には美人の匂いがわかんだよ、甘ったるい匂いがするだろ? 薔薇のように美しい女の匂いだよ」とかなんとかいってしきりに匂いを嗅ぐ動作をして、こっちから匂いがすると思ったんでしょうね、飲み屋の向こう側の路地の方に走り出したんです。そうなるともう追うしかないわけで、そっちに行ったんです。
    
    
    
    こうきくんがいったんだよ。きんもくせい? のにおいがするって。なにそのにおい、ってきいたら、おしえるからついてこいって、いって、それでついていったんだけど、せまいみちをいっぱいぬけて、ついたらそこだけもり? だったんだ。へんだったよ、だっていにつもそことおってがっこういくんだからしってるよ、あそこのみちもりじゃないもん。でもこうきくん、おくからにおいがするっていいって、いっちゃって、かえってこなかった。きんもくせいのにおい、しってる?
    
    
    
    やさしくなった母さんのあとをポチがずっと鼻をならしてついてく。
    
    
    
    しばらくは全然追いつけなくて辛うじて背中を見失わないように追っかけてたんですが、街の川のところまで来て、あいつは橋の横の階段を下りて行ったので、続きました。道路脇の川って氾濫しないいように堤防が必要なわけで、通る道から随分下にあるじゃないですか。道路は上にあって、その横の歩道から階段を降りると川のすぐそばに遊歩道があって、犬の散歩とかジョギングとかしてる、あんな感じのところです。そういう道って上からは覗き込まないと見えなかったりするじゃないですか。だから友達が興奮した犬みたいになってる身としては、川に落ちさえしなければ少しはほっとしたというか、人に迷惑かけなくて済むなと思ってたら、あいつぴたりと止まったんですよ。深夜だもんで誰も歩いてない匂遊歩道の真ん中で。やっと追いついたと走りを止めて大きく息をついたんですが、そこで不思議なことにですね、急に元カノの匂いがしたんですよ。
    
    
    
    ある日突然友達からいい匂いがするようになることってたまにあると思います。そんな時は「香水変えた?」とか「彼氏できた?」とか訊いてみる(或いはどうしたのかしらと思いながらスルーする)と思うのですが、まあ「体変わった?」とは訊かないですよね。匂
    
    
    
    金木犀の匂いを貴方は知っているだろうか。いい匂いといえば金木犀、という人はすごく多いと思う。知っている人は今、金木犀の匂いを思い出してみよう。ピンとこない人はハンバーグの匂いなんかでも一向に構わない。あれもいい匂いだから。どうだろう、いい匂いを嗅いだ時の感覚まで蘇ってきた人もいるだろうか。では、その匂いを私に教えてほしいと思う。私は金木犀の匂いを知らないのだ。ハンバーグの匂いはまあ知っているが、貴方の思い出のハンバーグの匂いは知らないのでやはり教えてほしい。言葉にしても、文字に起こしても、或いは絵に描いてみてくれても構わない。どうだろうか。
    
    
    
    美人の匂いがしているという事なのだからそれもあり得ると言いたくなりますが元カノの匂いは甘ったるいとは言わないです。ファミリー向けのシャンプーのような優しい匂いで、甘いという事は出来ても甘ったるいなどとは形容しない物です。そこまでならあいつとの感性の違いという事も出来ましょうが、奥の奥に仕舞い終わったはずの何気ない記憶が鮮明に蘇るほど間違いのないに、元カノの匂いが鼻から入ってきた訳で、その辺りから悍ましくなったことを覚えています。あいつが腕をいっぱいに広げました。誰かの抱擁を待つ時のポーズに見えました。でもシルエットの肩が大きく上がっているのを見て、深呼吸だと分かりました。あいつはこっちに背を向けたまま暫く深呼吸を続けていました。待ちかねてその場から「おーい」「酔い覚めたか」「帰るぞ」などと声を掛けてみたのですが、あいつは深呼吸を止めません。元カノの匂いだかアルコールの残りだかわかりませんがこっちも頭がくらくらしてきていて、いい加減ちょっと苛立って肩を叩こうと右足を出した時でした。あいつは脱皮しました。いい匂い
    
    
    
    どんなきっかけが舞い込んだのかわからないけど母さんが煙草を吸い出したかもしれない。吸ってるところは見せてくれないけど父さんと同じ匂いがする。銘柄もそろえたのかも。父さんのことはもう思い出したくないんだと思ってたから、あのころの思い出がよみがえってきてすごくうれしい。またしあわせになれるかな。
    
    
    
    あいつのシルエットが大きくなったと思ったら外側が靄のようになって、やがて靄は左に流れて弱い向かい風に乗ってこっちへやってきました。それはあいつの皮でした。服や目やもすっかり見た目そのままの風船のようになっていたのは今思えば不思議ですが人間は脱皮なんてしないんですからそんなこと考えたって仕方がないですよね。脱皮は一回ではなくて、僅かな明かりを透かして靄らしく見える皮があいつから剥がれてはこっちへ行ったりあっちへ行ったり川に落ちてゆっくり流れていったりしました。だんだんシルエットが歪んでいきました。そこでもう、いいと思ってそこを離れました。あいつは深呼吸を続けていました。そこを離れると元カノの匂いはぱったりなくなりました。
    
    
    
    難しいと思う。五感は視覚、聴覚、触覚、味覚、そして嗅覚とある訳だが、私が思うに嗅覚が一番共有しにくいのではないだろうか。視覚は絵に起こすことが出来るし、聴覚で捉えた言葉は発言や文字に、音は擬音にすることが出来る。味覚は甘辛酸塩苦旨の程度である程度再現可能で、触覚も何とか擬音や誰でも触ったもので代替できそうである。嗅覚の難しさは例えや足し算にしにくいいところだ。何と何を混ぜたらその匂いになるのかは想像し難いし、甘い匂いにもかなり種類がある。金木犀の匂いは金木犀の匂いであって、じゃあ何に似ているかと聞かれると、カテゴライズしづらいので別のもので比喩もしにくい。再現するのにも手間がかかる。と、ここまででかなり主観に逸れてしまったが、つまり何が言いたいかというと、匂いはその物なくしては人に伝え難いい匂という事だ。人がどんな匂いいを嗅いだのかは、嗅いでみなければ分からない。逆に言えば、嗅げば忽ちに分かるのである匂。


 匂い、というものがそもそも何なのかご存じでしょうか。あれは、あらゆるものから大気中に放たれた分子が鼻や喉に直接入り込み、それが私達の嗅上皮というところで捉えられて、分子に応じた信号が脳に送られた結果、匂いとして認識されるのです。このことについて私はこう思ったりします。物達の種子が入り込んでくるようだと。
    

    
 いい匂いしませんかいつも


    
    あそこで寂しんでおけばよかったです。あいつの美人への執着くらい元カノに未練を持っていたらもうとっくにちゃんと出せてると思うんですけど。こんなに太っちゃって。はは、確かに顔とかは太ったなんて不適切ですねえ。いよいよ不便で……あ、ここ、ちょっと剥がれそうです、あ、ほら、意外とすんなり
    
    


    



 あなただけの

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