生ける骸は美しいから

ふと、目の前をナミアゲハが掠めた。秋空に羽の色が映えている。彼女達にはもう、少し肌寒い季節だろうかと感じつつ、鋭い陽に鱗粉は爛々としていた。今年の秋をやけに肌寒く感じるのは、僕が夏を引き摺っているせいかもしれない。
この夏を思い出さずには居られなかった。

生物室は忘れ去られた香りがする。昼間は確かに授業の喧騒が立ち入っているのに、である。触れられていても忘れられている、という事かもしれない。理科系の教室と言えば奥の方が物置のようになっている光景をよく見ると思うが、ここも例外ではない。僕は教室の奥へ足を進める。臓器のこぼれそうな小動物のホルマリン漬け、ばらばらになった人間の頭蓋骨の模型、底の砂の乾ききった水槽、……視界に入れる度に、少し寂しい生命に心がきゅっとする。でも、彼等を手に入れる為にはこうするしかないのが、人間という最も愚劣な生き物だ。これは、個人的な意見。
僕の目当て達は、一段高いところに埃を拭かれて置いてある。わざわざ寂しい思いをして僕がここに来る理由である。僕はいつも、ほうと溜息をつく。薄く柔らかくも凛として、鱗粉で飾ったままの翅。華奢な胴体、脚。輝く複眼。命を失ってもそれらは未だ、魂の外見を綺麗に残したままでいる。そう、僕の目当てはこの蝶の標本である。一番後ろの席まで歩き、標本の箱と向かい合わせに椅子に座って、目の前のテーブルに突っ伏す。暖まったグラサル天板が気持ちいい。
何回見ても、またもう一回見たくて、こうして人目の無いのをいいことに生物室に通い続けてもう夏になる。小学生の時何とか情報を集めて作った標本を親に捨てられてから、標本を持つ事は止めた身だ。今もう一度手に入れれば違うのかもしれないが、彼女達の命を無駄にしたくないのでこうして我慢している。いつかは生きた蝶達と暮らしたい。美しい血潮を流して羽搏く彼女達と……

カラカラカラ

僕は思わず椅子から腰が外れて、なんとか手でテーブルの縁を掴んでドアの方を伺う様な体勢に立て直した。今まで何回こうして生物室に来たか分からない程だが、先生でさえ一度も来た事は無かったので油断していた。
細い足が一歩、二歩と室内へ踏み入れてきて、またカラカラカラと、丁寧に戸を閉める。見覚えがあった。真っ直ぐ伸びながらあくまで素朴な黒髪を背中まで下げて、整然とした足並みで彼女はこちらに向かってきて……しっかり僕に全身を向けて立ち止まった。

「……こんにちは……」
「あれ、孝一君、だよね」

動揺して先生を相手にするパターンの挨拶をしてしまったにも関わらず、彼女は滑らかに僕の名前を呼んだ。苗字を飛び越える姿勢に驚嘆する一方で少し、いや、かなり嬉しかった。
千堂有純さん。この間、東京から僕のクラスに転校してきた。彼女に合わせられたうちの学校の制服はいやに古めかしく見える、そんな女子で、クラスの雰囲気や友人の対応を見るに気さくな良い人であるのだが、僕にとっては心の中ででさえ敬称を付けずにはいられないような人だった。
「こんなところで何してたの」
「えっと……蝶を、見てた」
「わあ、孝一君も蝶が好きなの?」
途端に彼女は大きな目を輝かし始めた。
「もしかして」
「うん、私も蝶が好きでね、昼間ここにあるのを見つけて、改めて見に来たの」
なんと、まさに高嶺の花と呼ぶべき千堂さんが僕と同じ趣味を持っていた。大層驚いたが、彼女もまた凛として且つ柔らかな振る舞いで、なるほど似合うな、むしろ僕の方が驚かれるべき人間なのかもしれない、等と思い直した。同時に、予期せぬ彼女の無邪気さを観測して、何故か照れている自分に気付く。何だか近くの存在になってしまったように感じて、着ぐるみの頭が取れた所を見てしまった時みたいな高揚感と罪悪感があった。
「綺麗だよね」
天板に手をつく千堂さんの横顔を見てしまう。背骨の湾曲に沿って目線が滑れば上品なスカートは十分に魅力的で、……僕は蝶を見に来たんだし千堂さんも蝶に会いに来たんだぞ、と自分に言い聞かせつつ、折角通じ合ったのだからと話を続けてみる事にした。
「千堂さんは、蝶のここが好き、とかあるの?」「有純でいいよ」
「え、それって、な、名前じゃないか」
「何、どうしたの」
有純、……いやいやいや、千堂さんはけらけらと笑っている。東京の女子、というのはこんなに切れ味が鋭いものなのか。クラスでは意識的に女子から目も耳も背けているので、彼女の笑う所をまともに喰らったのは初めてだった。まずいな。落ちる。
「いいから呼んでみてよ」
黒く大きな瞳がまじまじと僕を見ていて、どうしようもない。
「……有純…………さん」
「呼び捨てでいいのに!」
さっき以上に笑っている彼女に、僕は完全にたじたじになった。耐えきれるわけがない!
「でもありがとうね、これからもちゃんとそう呼んでね」
千堂さんはこういう時の模範解答を知っているみたいだった。尚更釣り合わない。でも、趣味が合致している以上僕らはこれからここで何度も会い、話を重ねるだろうという事は当然の予測になった。

「好きなところはねー、形も色も一つとして同じものはなくて、それでいて美しくないものの無いところかな」
「標本ね、私も持ってるよ、どの子も綺麗でね、大切にしてる……気になるんだったら今度見せてあげる」
千堂さんは質問の答えから始めて、能動的に言葉を返し続けてくれた。蝶の話をしている彼女に対しては、僕は忌避感を抱かずに済んだ。そもそも僕が彼女と関わるなんて申し訳ないという意味での拒否反応であるので、彼女の予想以上に真面目な観察眼に感心し共感する度、このシーンに居るべきは僕で良いのだろうと烏滸がましくも思えたのだ。
予測は日常になり、僕と千堂さんは僕等だけが覚えている生物室で頻繁に落ち合った。彼女に会ってからというもの僕は明らかに生物室に通う回数が増えたのだが、増えたのは千堂さんに会わない日ではなく会う日ばかりだった。有純さん、という発音を毎回大いに躊躇しながら、それでも日に日に会話の内容は浅く広く、一般的になっていった。夏休みに入って、学校に来る中心的理由が無くなったにも関わらず何の言及もなく変わらぬ逢瀬が続いた時、漠然と「この人とは特別な関係になるのだろう」と思った。もうなっているのかもしれないとも思った。少なくとも僕はこの時彼女のことが好きだった。

「用事とか門限とかある?」
どこか落ち着いたトーンで孝一君、と呼んだ後、彼女はそう訊いてきた。初めての事だった。
「ううん、余程遅くなければ大丈夫」
「ほんと?」
付き合ってほしい場所があって……、と、彼女はどもり、はにかんだ。らしくない仕草を脳裏で咀嚼しながら、僕は歩き出した彼女の後を追う。付き合って。ラブコメの勘違いに使われるような台詞が僕の人生に侵入してくるとは思わなかった。どこに連れていかれても構わない、そこは彼女の思想が色写りした場所に違いないから、なんて、ただ単に近くのスーパーでのおつかいに付き合わされるだけかもしれないのに、そんな可能性は全く頭をよぎらなくて、浮足立っていた。こういう降りてきた様な予感は、当たる。
暫く千堂さんの背中や髪の靡くのだけを追って歩いていた訳だが、その内周囲の景色を気にし始めている自分が居た。てっきり市街地に出るものだと思っていたので、入り組んだ住宅街を進み続けるのを少し不思議に感じていたのである。最終彼女の歩は山らしい場所に入っていった。
「足元気をつけて」
とさっぱり言う彼女に、僕は半ば必死に着いて行く他無かった。

「ここだよ」
千堂さんが立ち止まったのは、小さな横穴の前だった。おそらく防空壕の残党だろうと思われた。彼女が躊躇なくしゃがんで行くものだから、僕も戸惑う暇もなく膝をつく羽目になった。粗削りの穴を進み、程無くして一まわり大きい空間に出る。見回さなくても、壁一面に標本箱が飾られているのが分かった。どうやらコレクションのための秘密基地といったところらしかった。
「私の標本、孝一君には見せたくって。どう? 綺麗じゃない?」
僕は白い蝶ばかりが飾られていることに違和感を覚えながら、まず見えている輪郭と収集するのが大変だっただろう頭数だけを見て取り急ぎの称賛の言葉を口にしようとした。しかし、それが喉を通ることは無かった。飾られているものが蝶ではない事に気付いたから。

「これ、蝶じゃ、ないよね」

確かに蝶の様な複雑な形をしているそれらは、材質だけなら見覚えがあった。骨によく似ていた。

「うん、蝶形骨、なんだけど知らないよね」

綺麗でしょ、と繰り返しながら蝶形骨なるものの説明をする千堂さんの快活な声を、僕はフラッシュにやられた様な頭で何とか拾おうとしていた。人間の頭蓋骨の中心にある、正に蝶の形をした骨。彼女は手短に蝶形骨を賛美していたと記憶しているが、詳しい言葉はその時の状態では全く処理できなかった。
「その顔はやっぱり勘違いしていたんだね、ううん、勘違いしてもらっていたんだけど……」
話し掛け続けてくる彼女の声はしかし先程とは変わって震えていた。決して僕の様なマイナスの振れ方ではない。あろうことか彼女は非常に、興奮しているのだった。
「理科室でも蝶形骨を見ていたの、孝一君は気にしてなかったかもしれないけどあそこに丁寧に存在していてね……あの子も生きている子だと思うの、美しいから……」
いや、あった、確かにあった。なけなしの冷静をかき集める。僕が見ていた蝶と彼女が見ていた「蝶」は違っていた。僕はずっと、目の前の恐ろしい彼女に気づかずに交流を繰り返していた訳で、更に彼女は手中にこれ程の「蝶」を収める、……異常な、人間であった、という事だ。目眩がした。それでもなお視界の様々に濁った白は甚くはっきりしている。生きている、あの子、という形容の全てが怖い。気持ち悪い。生きているというのは造り物でないという事だろうと察してしまった。つまるところ理科室にあったのは本物の頭蓋骨という事か、いや、今の問題はそこでは無くて、更に詰めたところで導かれる今ここに飾られている全ての蝶形骨も「生きている子」であるという所で、それは、少なくとも、彼女の猟奇性を確信するには十分だった。
「に、人間をこんな、な、何なんだよ、狂ってる!」
碌に震えない喉を叫ぶ勢いで機能させたはいいが、言葉を編む余裕もなく、滅茶苦茶になってしまう。千堂さんの表情は変わらない。単なる恐怖や怒りとは別の、僕の疚しさを見透かすみたいに、彼女は口を開いた。
「そんなことを言うものじゃないよ、孝一君が蝶でなかったというだけの話なんだから」

僕は自らの愚劣さを思い出していた。僕が蝶の標本を眺めていた時の眼と、数多の蝶形骨を前にしている彼女の今の眼と、どちらも恍惚以上の何者でもなくてどこに違いがあるというのだろう? 僕が蝶形骨で蝶が僕だったとして、そんな仮定は紙一重の元に存在している。頭が揺れてきた。蝶が羽ばたいているのか? 等という冗談を生む冷静さに、思わず引き笑いが出た。愚劣だ。しかし、崇高なのかもしれない。僕は今、観賞者としてここに居るのであって、それだけで立場を表すのには充分なのであった。歪んでいく。

「ねえ」

後ろから声がして、冷たい指先が両側の鰓を這い、掌で僕の頬を柔らかく包み込む。視界が澄んだ。僕の前で蝶形骨達は凛として羽を広げ、魂を湛えて、並んでいる。

「きれいでしょ」

彼女に呟かれた瞬間、まるで彼女の視界が突き刺さったかのように、白い蝶達は潔白と艶麗とを持って脳内に入り込み、僕を絶句させた。

僕は彼女を振り切って一目散に防空壕の出口へ駆けた。怖かった。狭くなる外の世界の手前で上手くしゃがめずに転んで、パニックのまま這って外へ出て急いで膝を立て、滑るように山を下りた。彼女は、追って来なかった。


この頃の僕は予定の無い日はとにかく生物室に赴く生活をしていたのだが、この日の翌日は流石に千堂さんに会いに行く気にはならず、部屋のベッドに体を浮かせ昨日の全てを大事にするか否か重苦しく考えていた。しかし結局、「今日は出掛けないの?」と訊いてくる母が次第に夏バテを心配する程になってきているのを察して、その場をやり過ごす為だけに外に出てきてしまった。とにかく足を動かして、適当に家から離れていく。すぐに昨日のことをもう一度考え始める。
人骨の収集家に出会ったことは無いし、頼りになる実例も知らないが、ああいう事実は即日然るべき所に伝えるべきだったんだろう。昨日の時点で僕がその思考をしなかった訳でもなかった。でも、僕はそうしなかった。そんな事をしたら僕もあの標本箱の中に並ぶ、という恐怖に支配されていた事もあったが……。
昨日一度僕は、蝶形骨を美しいと思った。それだけで僕は既に千堂さんの共犯だ、と思えた。今までの僕の愚劣さを自覚させられてとても彼女だけを告発する気にはなれなかったし、何より、僕は。

「あ、孝一君」

行こうか、といった彼女の顔に驚きは見られなかった。分かっていたんだろう。
僕は昨日辿った住宅街の入口まで辿り着いていた。無意識のうちだったのか意識的だったのか、僕にも判別はつかない。ただ、僕が蝶形骨を拝む機会を失いたくない、と考えていることは確かだった。それが一連の選択の根幹だった。そして千堂さんは、答えの先できちんと待っていた。能動的に会いに行くのは完全な悪者になってしまうからしなかったが、期せずして遇ってしまったのだから、これは別に仕方の無い事だよな。
電池式のランタンを手分けして点けた。陽の入らない内部は思いの外涼しく、長時間滞在出来ると思われた。昨日あんなに動揺していた筈の空間で、僕は全く冷静に標本箱を凝視していた。色も形も違う。生きている。触覚から翅、尾状突起に至るまでが蝶と重なった。蝶が飛ぶ者なら、蝶形骨はさしずめ眺められる者といった所だろうか。狙った様に一致する形とそれの眠る位置とを考えると、千堂さんの感情にも理解を示せる気がしてきていた。

「誰にも言わなかったんだね」
「うん。最悪だろ」
「そうだね」
私と同じだね、と千堂さんは言いたげだった。二人して視線を蝶達に戻した。観賞をしている時僕の頭にあるのは目の前のそれの美しさであって、背景の事はすっかり切り離されている。正しいのかは分からないが、僕は千堂さんの様に背景を思考に入れてまでこの場所に居られる気はしなかった。だから詳しい事は、訊かなかった。その日は日が暮れるまで、時折標本箱に近づいたり離れたりしながら、僕らはただ蝶達と相対していた。
それからは、理科室で示し合わせるでもなく出会い、一通り蝶達を眺めた後、防空壕まで二人で歩く日々が続いた。半ば目印の無い住宅街に山道を感覚で正しく辿れるようになるまで、蝶形骨を前にした時も蝶の標本の前での様な他愛無い振る舞いが出来るまで、何週間もかからなかった。それでも時折全てが恐ろしくなり、何度か終わりを選択しようと考えた時はいつも、僕の頭蓋の中に住む蝶が彼女の恍惚の対象になっている景色がちらつき、考える事から止めてしまった。
僕は蝶にも蝶形骨にも同じと言って差し支えない美や魅力を見出している感覚だったが、彼女の方はというと明らかに違っていて、やはり整然と並ぶ蝶形骨を視界の一面に収めた時に見せる過激な恍惚の表情は他の何時も見ることは無いのだった。
夏休み明け、千堂さんは宿題を提出せずに居残りに該当し、一時的に落ち合う日常が途切れた。


連日一人で生物室の蝶だけ眺めている。夏の初めを思い出す。一人で蝶形骨を見に行くことも可能ではあったが、どうにも気が乗らなかった。あの輪郭は良いとしても、色彩や優艶さに事関する限り、やはり蝶の方が好ましいのではないかと感じていた。ひょっとすると、彼女の恍惚を借りて初めて、僕は蝶形骨に没入していたのかもしれない。曇りの無い複眼を覗き込む。

カラカラカラ

先生ではなくて千堂さんだった。
「課題終わった?」
「うん、何とか、居残り分はね」
「意外だよ、いままではちゃんとやってなかった?」
僕の問いに千堂さんは、えへへ、と曖昧な微笑みを返し、
「今日予定ある?」
と、久々に誘い文句を口にした。そして僕が首を横に振るのを見るやいなや、蝶の標本はおろか蝶形骨にすら目もくれず、やけに意気揚々と教室を飛び出して行ってしまった。慌てて後を追う自分がいた。


「やっぱり、美しいよね」
防空壕の奥で、ランタンの一つも点けずに千堂さんは言った。思えばやはりいつもより高らかであった賛美をいつもの台詞と聞き流しながら僕はランタンを点けた訳だが、そこで体は強張った。
大小用途様々の刃物が地面に散らばっていた。どういう訳だか、逃げ出しても無駄だと、僕は立ち尽くしていた。蝶が、羽搏きかけている。振り返る彼女と目が合った。
「分かっているかもしれないけど、私も蝶になりたかったんだ」
「自分で自分の事はどうしようもないから、ずっと誰かに頼みたくて」
サバイバルナイフを拾う彼女を、僕は茫然と見つめていた。
「私の蝶もいつもの眼で見てね」

彼女の意図を察した後、最期の台詞の時でも、少しの躊躇の時でも、止めに入れたのだろう。しかし結果として僕は、動かなかった四肢をぶら下げて倒れた骸を見下ろしていた。あらゆる負に打ち勝ったと見える微かな笑顔に安心すら覚えた。標本箱の幾つかが血に塗れて色彩になっていたが、興味は無かった。
僕と仲良くなった頃にはこうするつもりだったんだろうな。だから宿題に手を付けなかったんだろう。そんな物を考える隙すら持っていなかったとしても不思議じゃない。ここまで着いてきた僕は止めないべきだったのだ。後付けの正当化といえばそこまでだ。でも僕はずっとこうやってきた。そして今も同じ様に言を重ね、……彼女の最後の願いすら無下にするつもりでいる。
恐怖という帳が下りたとき、僕はそこに揺るぎない愛情が存在していることに気が付いた。きっと、ずっと能動的に行動していたのを、自分の誤魔化しようのない愚劣さから目を背けて自意識ごと押し込めていた。僕は彼女を愛していた。僕が追っていたのは彼女だった。だから思う。わざわざむき出しにして蝶にならなくても君は美しい。むしろそのままの方が遥かに美しい。君の魂は間違いなく今僕の目の前にある。美しいよ。徐に屈んで垂れた髪を撫ぜて、今やっと僕は、有純の輪郭を捕まえられた気がした。愚劣なんかじゃない。有純もきっとそう思っている様に、とても崇高だ、それ以外の何も有り得ないよ。


僕は部屋を残して、防空壕の道の部分を埋めた。僕と彼女は最後まで二人きりだった。僕を魅了するのは魂在るところの骸だけだった。それでも忘れられる筈は無い。
目の前をナミアゲハが掠めた。随分と黒色を多く持った個体のように見えた。

「ああ……皮肉を被っているんだね」

僕は呟きながらシャベルを取り落として、そしてそのままとぼとぼと、石ばかり踏みつけて帰り道を下がっていった。
眼前の彼女の羽搏きは最早、疎ましかった。



※本作品は私が所属しているサークルの機関紙『樹林138号』への寄稿作品に軽微な修正を加えたものです
樹林138号へのアクセスはこちら:https://twitter.com/tsukuba_sakuhin/status/1456955373974290434?t=sksUuHNXO_THwEB1PYW1Aw&s=09

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