たとえばあなたの夢

七月五日。午前八時二十一分起床。
アラームが鳴る前に起きるとは思わなかった。少し涼しすぎる。ふわふわと軽い毛布を足で挟んで掛け直しながら右手でベッド脇をまさぐる。シリコンの感触。輪郭をなぞる。輪郭が大きすぎる。これは電気のリモコンだ。再び大きく手を動かす。シリコンの感触。輪郭をなぞる。目が閉じていく。小さい突起が細々と並んでいる。これだ。感覚を頼りに瞼の裏でリモコンの向きを思い浮かべ、ここだ、というシリコンを押す。固いとも柔らかいとも言えない私を起こしたがりな感触。エアコンの停止音。目を何度も細かく瞬き、一回大きく開ける。乾いていて、すぐに痛くなってくるのを数秒無理やり耐えた後、目をぎゅっと瞑る。涙で少し目が潤う。電気をつけたい。毛布に足を擦りつけながらさっき電気のリモコンだ、と思った辺りに手を伸ばす。シリコンの感触。輪郭をなぞる。輪郭が小さすぎる。これはエアコンのリモコンだ。さっき置きやがったな。再び大きく手を動かす。シリコンの感触がない。毛布から何もしないという安心の匂いがする。エアコンのリモコンのところに手を戻してその下をまさぐる。シリコンの感触。輪郭をなぞる。目が閉じていく。大きいシリコン。これだ。一回押してもつかなくて三回くらい押してみる。暗いな、と思って薄目で確認すると常夜灯がついている。もう二回押す。眩しくなって手で目を覆う。慣れるまで暫しのポーズ、起きている、と何回も意識に確認する。体を思いっきり横に捻り、転がり、戦略的にベッドから落ちる。すぐそこに人がいるという前提を自分に課し、かっこつけて体を起こし、倒れている二リットルペットボトルに手を伸ばす。今の力では持ち上げられないので、キャップを外したら、左手でそこにあったコップを取り、床とペットボトルの接触面を支点にして右手で傾け、なんとか水をコップに移す。口内を満遍なく潤すように飲んでいく。部屋が涼しいくらいになっている。アラームが鳴る。起床時間だ。どの食べ物を朝食として摂取しようか考えて、冷凍室の白米と明太子が思い当たる。
機械モード。約四十分。
あの人の隣を歩くならどんな服が良いだろう。クローゼットに掛かった服を視界に収め、部屋干しのラックに掛かった服を視界に収める。何回か繰り返したあと、クローゼットから黒シャツを、ラックから黒ズボンを取る。ハンガーを床に放る。放ったハンガーを拾い直してラックに掛ける。どこかに放った黒シャツを探す。ベッドの上に見つける。靴下の引き出しを開けて、一番手前の黒い靴下を出して、ベッドの上に置く。ベッドの上に置きました、と思う。
機械モード。約七分。
自転車の鍵を探す。机の上のパソコンの裏に見つける。部屋の電気、廊下の電気と消していく。黒のスニーカーを履く。外に出て、ドアを閉めながら電気が消えているのを確認する。電気が消えています、と思う。ドアに鍵をかける。鍵をかけました、と思う。
機械モード。約三分。
自転車をいつもより奥の方に止めたことを思い出す。
機械モード。約十五分。
自転車を駐輪場にはめ込む。鍵を抜く。128、128、を覚える。鍵をポケットに入れながら鞄を肩に掛け直す。小走りする。頭の中にあるのと同じ人を見つける
「二分遅刻」
謝りの言葉をちゃんと口にしたよな、と喉に残る何かしら声を出した感覚に問いかける。口から息をしている。浅いので深くしようとする。人は笑って、歩き始める。少し距離が離れる。急に人の姿が薄れる。慌てて足を進めると、さっき通り見えるようになる。
「元気? ちゃんとご飯食べてる?」
言葉が出ない。昨日食べたものを思い出そうとして、上手く行かない。人はむっとした顔で何か言ってくれて、それからは黙って歩き続ける。昼の日差しが湿気に絡めとられて夏らしくない外の、確からしく硬いアスファルトを踏んで人と行く。強く強く瞬きをする。この間咲いていた花は全てどこかに消えてしまって、やはり纏わりつく熱気にぼやけた緑々の横を感嘆なく通り過ぎていく。太陽の音がする。街灯がついていない。ついていない街灯が在る。ベンチに人が座っていない。空白のベンチがある。これは空白のベンチだ、いつまでも。後ろ手に組んでいる人の手首が細い。そこにはもう秋がある。それを注視しようとすると体が翻る。人はあっちを向いたりこっちを向いたりしている。こっちを見ていますね、と思う。何か音が足りない気がしている。
「死のうと思う」
意味もなく、言葉がのこ、と出てくる。出したかったそれよりずっと嗄れた声になる。人がいるということ以外はっきりしないことが悲しい。それはいつからのものだかわからないような、固まってしまった悲しみに思える。人は振り返る。振り返る音も無い。
「なんでそんなこと言うんすか」
人に右手を引っ張られる。一緒に道を駆けていく。速いスピードに乗りたいのに足が動かなくて引き摺られている。引っ張られている不快は無い。両目の端で緑と灰が混ざり合う。ビルの全ての窓がこちらを見ている。星を見に行くのだ、と思った。何故かもう空が暗い。
機械モード。
足が縺れる。人が急に止まる。エネルギーが無く、切り替わりのように静止する。体重が感じられず激情が即座に胸を握り潰す。
「ねえ大丈夫!?」
「大丈夫じゃないよ!!!」
怒鳴っている。さっきまで動かなかった声帯がよく動く。人に抱き締められる。
機械モード。
スマホで人を撮っている。スマホの画角を横目で確認しながら人を見る。画面の中と外で全く違う表情をしている。スマホの方を注視する。誰も悪くない悪寒が走っている。
「どうせ忘れますよ、それを見ることも」
人にスマホを取り上げられる。所在無い掌が見えない何かに触れている。電子音がして、夏も背景も無くなる。涼しい。人が真っ直ぐこっちを向いている。そっちを見る。人の表情が急に鮮明になる。「こっちを見ていてください」
頷く。暫し人の顔を見続ける。人もこちらを向いている。アスファルトが柔らかくなっている。視界が動き始める。体が動き始めていることに気付く。人と進んでいく。人が動いている。感触は無い。触れていないから。緑がざわめいて、オレンジが平行移動している。信号が無い。無い信号は常に何色かであると思う。見えないその色を無視して静かな街を歩き続ける。人が歩き続けているから。ゆっくり進んでいく。人が僅かに光っている。
「見て! 猫!」
よく見ても猫がいない。暗い上にぼやけている。目を凝らせない。
「にゃんにゃ~ん」
人が走っていってしまう。追いかけようとしても全く足が進まない。後ろに何かいる気がする。怖くて走りたいのに全く走れない。何とか少しずつ進んでいる。焦燥で心臓が縮む。暫くその中にいて、やがて人が現れる。助けを求めようとして、声が出ない。
「明日になってくんやな」
その場にへたり込む。鮮明な、言葉、両手で顔を覆う。自分で顔を上げるまで何も無い世界のようだった。顔を上げる。人が立っている。顔は見えないけれど、ああ、と思う。人の肩の後ろに眩しい星がある。
「生きていて。なんでも、するから」
頷けなかった。湿気の中に緑が滲み、身体に絡みついて重い。アスファルトに胎児のように寝転がり、無い感覚に目を閉じる。思い返せば、人が変わっていたな。走馬灯よりもずっといい、皆が会いに来てくれていたんだ。もう覚めることはないのかもしれない、と思う。安らかだった。皆の輪郭が、顔が、きっと実はもう形も無いのだけど、一つもぼやけずに頭の中にあるまま、意識が沈んでいく。

 


七月六日。午後二時〇八分起床。
涼しさで震える。弱でかけたはずのエアコンが何故か強になっているらしく、唸りながら冷風を吐きまくっている。背中に固い感触がある。弄ってみるとリモコンがあって、案の定強になっていた。弱に戻す。何も考えず、もう一度毛布を被ってしまう。体を震わせる。多少心地好い涼しさになる。毛布から何もしないという匂いがする。日常の匂いそのままであるが故に感知できない、安心の匂いである。
さっき、夢を見ていた。なぞる度に再構築され、消えていく記憶の中に会いたかった人たちが生きている。皆今頃どこで何をしているのか、今すぐ確かめられるし呼び出すことだってできる程近い人たちに背を向けて眠る。明日がやってきた。明日はやってくる。それは深刻に分からないようでいて限りなく確かなことだ。死にたいなんて全く思っていない。私が自我だと思っている自我が、知覚し得ない力が言っている自我より弱いということはない。安らかな夢だった。だから途方もなく怖かった。これらがあなたの望んでいる物ですと眼前に差し出されるのを拒否する手段も無く見せられてしまうのが怖かった。湿気が真実の名を冠した欲望の姿で絡みついてくる。エアコンのモードを除湿に切り替えて、胎児のようにぎゅっと丸まって目を




本作品は、筑波大学文芸部が発行している部誌「樹林」147号への掲載作品です。
樹林147号はこちらhttps://drive.google.com/file/d/105PN_JUK1wQiq3Vzg29oSPD-CIVwagDM/view?usp=drivesdk


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