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村は村社会、企業も村社会

 私は奈良県南部の山奥深い村に生まれ育った、文字通りの村社会出身である。村の人間は、いわゆる村八分を恐れていたわけではないと思うが無意識のうちに恐れてはいたと思う。空気を読み合い、親戚のような近所付き合いがそこにはあり、小学校へ通うと、そのコミュニティ自体が一つの小さな村のようだった。協調しつつ「あなたはこれが得意でこれが苦手だよね、だから私はそれが得意だからそれをやるよ」みたいな助け合いがそこにはあった。中学も同様であった。村の近所付き合いにもそれは当然あった。彼らは自身のルーツを知っている人たちである。私も彼らのルーツを知っている。そういう人たちが3、4世代絡み合いながら一つの村で共存している。 そんな環境で暮らしていると、実際には村八分はなかなか起きない。どうしようもない人がいても、怒り、叱り、それでも内包しながら日々を生きているのである。ある種の秩序めいたものと寛容さが村社会を支えているわけだが、これはなにも村に限ったことではない。

 ひとたび就職すれば、それがどんな雇用形態であれ、どんな規模の企業であれ、実は村社会なのだということに気づかされる。結局のところ人間関係であり、空気を読んだり読まなかったり、空気を読んだ上で空気を読まないふりをしたり。積極的に仕事をする人間もいれば消極的に仕事をする人間もいる。表立っては違っても本能的に村八分になることを恐れながら生きてもいる。村でのご近所付き合いは部署内でのコミュニケーションみたいだし、寄り合いは会議と飲み会を併せたものである。

 では一体、どのような人物が村八部になり得るのか。やはり酷く暴力的であったり心が貧困であったりする場合がそうなのだが、問題はここからだ。協調性が極めて欠如している人物や、未来を一歩どころか五歩は先んじて視えている人(半歩先を視ている人が最も尊敬されやすい)も村八分フィルターにかかってしまうのだ。いわゆる“変わり者”である。例えば美女と野獣のヒロイン、ベルはかなりの村社会で生きていて変わり者呼ばわりされている、なぜか?女性なのに読書が大好きだからという理由に加えて、先進的な思考態度だったからである(あと洗濯しながらの井戸端会議にも関心が薄い)。企業や他の村にも同様の人がいるはずだ。彼・彼女らがどうして協調していないように見えるのか?意味不明の夢物語をキラキラしながら嬉しそうに語って周囲を引かせているのか?村や企業社会に順応し、溶け込んで久しい方には難しいかもしれないが、モノの見方を少し変え、クリティカルシンキングしてみることをお勧めしたい。

 そうはいっても人は少しずつしか変われない。最後に、村や企業を一体の生物と捉えてみることにしよう。面白いのは新陳代謝である。福岡伸一博士の名著『動的平行』がわかりやすい。生物の代謝は、何かを食べると、それが全身に行き渡り体の一部となる。そしてその分の要素が体外に排出され、これを繰り返すことで生命は維持される。1年前の自分と今日の自分は実のところ全く別物というわけだ。これは企業でもそうで、会社という体の中で新しい人材が入ってきたら、それまでいた人材は排出される。企業の代謝である。村でもそうだ。新しい命が生まれれば、その隣で古い命が排出され、村という体で代謝が起こる。ウェルビーイングが整っていQOLが高い生物(企業・村)は居心地も良く元気だ。そんな生物の生産性が低いということはないだろう。そう私は想う。

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