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清貧ではなく、清富貪貧

 日本では古来より清貧であることが良しとされてきました。清く貧しくあることこそが美徳なんだ、美しいんだとされてきました。しかし本当に貧しくなければ清くないのでしょうか?清く在るには貧しく在らねばならないのでしょうか?僕は以前から疑問でしたが最近はこう思います。思うというより確信に近いのですが。


 清い者が貧しくあるというのは社会にとってあまり快いカタチとは言えないと。真の美しさとは“清い者は富み、貪る者は貧しい”という構図だろうと。それを僕は『清富貪貧(せいふどんひん)』と呼んでいます。清く心の豊かな人は経済的にも豊かになり、心の貧しい人は経済的にも貧しくなる仕組み。これこそが心地良い世界のカタチ、社会のカタチではないだろうかと。心の清いものが経済的にも比例して富裕になることができれば、お金はもっと利他のために使われることが多くなっていくのだろうと考えます。社会の狭間に追いやられてしまっている人たちに今よりももっと救いの手が、チャンスが与えられるのだろうと考えます。


 誰1人とり残さないというSDGsのメインテーマは実に理想的です、僕は理想主義的なところもありますので、あの言葉は素晴らしいと思います。しかし現実主義的な見方をすれば、そんなことは不可能だと言われてしまうことも多いでしょう。ただ、理想を語る者がいなくなった社会はどこか寂しいものの様に個人的には感じてしまいます。確かに、誰1人とり残さないというのはあまりにも無謀なテーマに聞こえなくもないのです。そこで、この清富貪貧が実現していけば、このメインテーマもクリアに向けて近づいていけるのではないかと思うのです。
 

 ではこれを実現するにはどうすればいいのでしょう?実は国を挙げて行っているところがあります。それは中国の信用スコアです。個人の信用を数値化し、それが高ければ高いほど社会的にも優遇され、低ければ低いほど冷遇されるといった、大まかに言えばそういう仕組みのことです。ただ、さすがに僕も今の信用スコアがそのまま手放しに良いと言っているわけではありません。現在の信用スコアには決定的に不要な要素がくっついているからです。それは“権力”です。これがある限り、せっかくの信用スコアはまともに機能を果たしません。権力から分離されれば信用スコアは清富貪貧の起爆剤となり得ます。そして『心の富裕層』と呼ばれる人たちが、より安心して暮らせる。そんな社会が訪れることでしょう。その時、誰1人とり残さないというキラキラとしたメインテーマもクリアされるかも知れません。

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