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簡単に答えを出すことがかっこいいかもしれない時代にゆっくりと語り合うことを。

最近Twitterのスペースという機能を使っていろいろ話しているうちに、この時間って楽しいな、素敵かもしれないなと思ったので、今の自分が思っていることをnoteでも残しておこうと思います。

そのTwitterのスペースはここから聴けます→みやのスペース
#みやのスペースで過去の分も聴けるのですが、今スペースを2回録音してみて残してみて、なんと毎回2時間とか3時間だったりするわけです。

最近のトレンド?というか広く人に知ってもらうためには、とにかく短くわかりやすくする傾向にあると思っているのですが、そこに逆行して長尺の音声配信。

人に聴いてもらう気があるのか?という感じなのですが、なんとなく今の時代にはゆっくりと語り合うことも必要なんじゃないかなと思っているんです。
そう思ったきっかけとしては、武田砂鉄さんの著書「わかりやすさの罪」で書かれていたことや、若新さんのYouTube「人間ニュース」で語られたことから思ったような気がします。

物事は複雑で、自分自身の感情も思考さえも変化しうるもので、(シンプルで簡潔な)”言葉”になる前の「言葉」(文脈やプロセスたち)があるわけだから、誰よりもはやく答えに辿り着くことが必要なのではなく、ゆっくりと話したっていいんじゃないか?と思ったわけです。

なんとなく今は0か100か、白か黒かどっちの意見なんだい!はっきり短く答えてくれ!自分の立場をはっきりさせてくれ!と問われることも多い気がするし。

そんなときに出会ったのが以下の記事。

下村さんが言われているように、0から99までスイスイと”吟味”していくことがいいんじゃないかという話は、なるほど!と私の心に響きました。

さらに、その上で自分の体験として、最近お仕事で「対話型ワークショップ」を部署内の全社員と行なっているのですが、ディスカッションではなくダイアローグをすることによって、互いへの理解や自分自身の感情や思考への自覚、そこで生まれる新たな、そして変化するような考え・発想みたいなものも感じているので、ゆっくり語り合うことは必要なのかもと思ったわけです。

もっというと、もしかしたら私の原体験として、小学生の頃母親と交換日記をして、時間をかけながら自分の意見を伝えたり相手の意見を聞いてきたところがあるので、ゆっくりと考えること、人や事象と向き合うことは大切だと実感しているのかもしれません。

と、こうやってゆっくりと考えることいいよね!といっているのですが、実は憧れるような大人になるために、20代のうちにいろいろ発信できるような思考を持ってみたい!という焦った気持ちがあるのも嘘ではないです。
実際に自分の意見をバシッと語れる人たちをすごいと思って、自分自身に劣等感を感じてしまった時期もあります。

それに、もちろん今他者に足を踏まれていたり、何かの自由を奪われていたり、困難な状況に置かれているような事象があるよなぁとも思っていて、そうしたことに関して今いまで答えを急ぎたいという部分があることもわかります。

うーん、このバランスって難しい…。
だけど、今のところの私は、対話や吟味をじっくりとすることが遠回りのようで近道なんじゃないかと思ったりしています。

それぞれのペースで「わからない」という「わかりはじめ」のスタートラインに立つことから、対話をして、互いのコンセンサスを取り合い、解決に向かうのではないかと思ったりして。

だから私も私のペースでどんどん新しい「わからない」スタートラインに立って、少しずつ対話の場を作っていきたいと思うわけです。
そのためには、その場で離すメンバーの心理的安全性も必要だし、ある程度の知識もあると他面的・俯瞰的にみれるような気がしています。

私はこれからも本を読むし、朝の情報番組「モニフラ」を見るし、Twitterやnoteでいろんな人の意見も読みたいし、Twitterのスペースで対話の場を続けていきたいと思います。

もし、この記事に辿り着いてたまたま読んでくださった方がいらっしゃったら、ぜひ「自分はこんなこと思うよ!」「こんな方法もあるんじゃない?」などなど感じたことを教えてもらえると嬉しいです。

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