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「タダイマトビラ」

世界の見え方って人それぞれだと思う。
僕はふと、「僕の見えている空の色」と「他の人が見ている空の色」は同じ「青」という言葉で表現されているものの、その実は違うのではないかと、確かめようもないことを考えてみたりする。
目に見えるものに対する感じ方は、人の数だけ存在するのではないか。

村田沙耶香さんの『タダイマトビラ』は「家族」がテーマの物語。
主人公の恵奈は、母性が欠落した母親に育てられ、「家族欲」を渇望していた。それを「カゾクヨナニー」で解消しつつ、早く「本当の家」を見つけ出し、「家族」を成功させようとする。しかし、その過程の中で、恵奈は「家族」とはお互いが、お互いで「カゾクヨナニー」をしているだけではないかと悟る…。

この小説のすごいところは、主人公・恵奈が見えている世界がどのようなものかが、物語は非現実的であるのにもかかわらず、リアルに頭の中に映像化されることだ。
恵奈が浩平との生活のなかで、「家族」とはお互いが、お互いで「カゾクヨナニー」をしているだけと悟った後のストーリーは現実離れしすぎている。しかし、恵奈にはそれがリアルであって、そして読者である私も恵奈の世界をまざまざと見せつけられた気がした。

「こんな風に世界が見えている人もいるのか…」

読了後、ぼくはそう思った。

「家族」というシステムについて考える

『家族になるというのは、皆で少しずつ、共有の嘘をつくっていうことなんじゃないだろうか。家族という幻想に騙されたふりして、みんなで少しずつ嘘をつく。それがドアの中の真実だったんじゃないだろうか。(本文p.162)』

この作品の中で描かれているのは、「家族」というシステムが崩壊した社会。それを本作品では、

『ここが人類がニンゲンになる前の世界なのだ。(p.206)』

と、表現している。「家族」というコミュニティの崩壊は、すなわち『人類がニンゲンになる前の世界』へと戻るということを示す。

つまり、「家族」というコミュニティは人間が人間たる上で必要不可欠なコミュニティであり、システムであるということをこの物語は暗に示しているように私は感じた。

「家族」というコミュニティが崩壊した社会(それがもはや『社会』というのかさえ、考えなければならない)では、言語までも消失してしまっている。「家族」のない社会では、非人間的な社会が生まれるような気がしてしまう。

社会は「労働」、「教育」など様々なシステムから成り立っている。
現代は、そのようなシステムが肥大化し「家族」システムは縮小化している。

『タダイマトビラ』はそのような社会の傾向に警鐘を鳴らしているのではないか。

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