「第二次世界大戦以前に〝道徳〟という教科は無かった」

「リテラ」に掲載の記事からシェアです。
ビートたけしさんの小中学校の「道徳教育」について、国が教育方針を変える事について「異論」を訴えた内容です。
強く同意する内容です。

2015年当時の記事なので、もしかすると今の教育方針は変わってしまっていると思います。
そこに「危惧」を感じます。
親世代である私たち(父母、祖父母世代)がそう踏まえておかないといけないと思います。

そもそも「道徳」とは何なのか?
一般的には「日本人としての〝姿勢〟」という事だと思います。
では、その〝姿勢〟とは何なのか?
多分ちゃんと説明の出来る親御さんは少ないと思います。

生まれ育った環境や親が違えば、十人十色の考え方があり、日本人として「一つに焦点を絞る」という事が難しい…となります。
ただ、これが「戦後教育」が目指した「結果」と言う事に氣が付いていない親世代が大半だと思います。
今の祖父母世代の殆ども「戦前教育」を知らない世代が多くなった為、この「差異」を感じ取る事も出来ません。
実はその事が「思想教育」の賜物なのです。
詳細は後程明記します。

戦後、GHQの指導の下、新しい教育制度が始まる反面、連綿と繋げてきた「伝統と文化の喪失」は急務でした。
その事で多くの「文献」は「焚書」となり、ここで「日本文化の否定」をされました。
その一つは「日章旗や日の丸に対する現代人のアレルギー」にも繋げてます。
本来の意味を知れば「掲揚の心」は大事な事であり、右も左も無い「日本人としての同一性」なのです。

戻ります。
「焚書」とは「焼払う事」
ですからここで「文化と伝統の途切れ」が生まれた訳です。

ただ、一部の「風習」が生き残ったのも事実。
何故残ったのか?
つまり「焚書」仕切れなかった「希少の物」があったと言う事です。

その中に「教科書」も残されてました。

枕が長くなりましたがここからが本題。
その「教科書」を直接見る機会がわたしにはありました。
その教科書を見て感じた私見ではありますが「実際の教科書」を見た事から感じる事なので「嘘」では無い事は「事実」です。
因みにこの「教科書」をどの様に見たかの詳細は省きますが、特別な方法で無く、何方でも容易に見る事が出来ます。
「検閲」の対象となりたくないので、ご興味のある方は個別にご案内します。

その「教科書」に触れる機会で一番の驚きは「国語」の教科書でした。
見たのは「師範教育」の教科書でしたが、しっかりとした「礎」が明記されてましたし、当然初等教育へのの手引きになってますから、小中学校で教えていた内容と理解出来ます。

今の「国語の教科書」は「読み書きと作家の文章」を学ぶ場となっていますが、本来の「国語」とは「日本人として世界に通用する知識を学ぶ教科」でした。

では、どの様な「教科」だったのか?
当然読み書きは習うにしても、文章の読解力が付いた段階で「日本国内の構造」を「国語」の中で学ぶ事になります。
「世界情勢」や「文化の発展」「統計」など…。

ん?ちょっと待って下さい。これって教科が違うのでは?とお氣付きになるかと思います。
確かに今では「社会」に分類される内容です。
実はここにこそ、当時の「国語」の在り方があるのです。

「社会」や「数学(算数)」時には「理科」も「国語」に含まれてました。
因みに「社会」と括りましたがこの中には、中学で学ぶ「公民」「世界史」「日本史」「世界情勢=外交、貿易」も含まれます。
何故含まれる必要があったのか?

つまり「国語」とは、読み書きを習う教科ではなく「日本人とはどんな民族なのか」を学ぶ教科だったと言う事です。
多分ピンと来ないと思いますが、理に叶っています。

例えば今「日本ってどう言う国?」と聞かれて正確に答えられる人が少ないと思います。
でも当時の人は「相手がどの様な境遇」であるかによって説明出来る知識の根っことして「国語」を学んでいたので「日本人としての姿勢」を躊躇無く答えられたと感じています。
この事は、逆に「相手をより知る事」にも影響を及ぼしていると感じます。

実はこの「国語」の在り方が今の日本人と「最大の違い」と言えますし「教科の細分化」による弊害と言えるのです。

「各教科」とした事で「教科毎での完結」となり「関連性」を導けなくなっています。
学んでいても「蓄積」されない、だから「薄弱で世界と戦えない」事に繋がっているのです。

話を戻します。
つまり「国語」という教科を学ぶ事で「日本人としての最低限の同一性(アイデンティティ)」が備わり…「誇り」が生まれる。
「骨太の民」が多く育まれていた事実なのです。

この事で「国語」と言う教科が行き着くのが「道徳」なのです。
「関連性」が生まれるからこそ「国体」を理解し「日本人としての〝道徳〟とは?」を初めて理解出来るのです。

ですから、今の「道徳」という教科は真っ赤な出鱈目ですし、当時の「国語」という教科に「道徳」が含まれつつ「両輪」であった訳が理解出来ます。

今の「道徳」教育はビートたけしさんも指摘している「国の思想教育」になっているに過ぎないと言うのは的を射ているお話です。

戻ります。
改めて当時の「国語教育」には「社会」「数学」「理科」などを「紐付き」で学ぶ事で「日本という、人と国(国体)」を「理解」させた事で「同一性」を見出し、ここで初めて「道徳」という「概念」に結びつけています。
「国」を理解しなければ「道徳」も理解出来ないと言うのは当然の事と、ここまでの事を踏まえれば理解できると思います。
だから、当時の人は「日本人としての姿勢にブレは無かった」と思います。

どうです?
先人の「国語」凄くないですか?
そして「道徳」に繋がる道程、素晴らしくないですか?
多分、世界を見ても類をみない「民族性」だと思いませんか?
この「国語」の在り方は、考え様によっては「脅威」になる事もあります。
ですから「戦勝国」にとっては「潰す」必要があり、先に明記した「焚書」に繋がる訳です。
当然、この「国語」の在り方意外にも「焚書」したかった理由もありますが、ここでは省きます。

今「一般」とされている…戦前の教育は軍国の象徴…と言う「レッテル」は真っ赤な嘘。
「戦勝国」が作った「思想」そのものです。
確かに一部「軍」についても「国語」は触れてますが、先に書いた様々な教科と同じく「国体」を知る為の「知識」であり「実態」を知る為の「要素」でしかありません。
ですから正確な「歴史認識は重要」なのです。

ビートたけしさんもリンク中で指摘の「今の道徳の在り方」を「思想教育」と断言しているのは、これらの事にも由来していると考えて正しいと思います。

今の「道徳」は「民を誘導」する「手段」であり「権力を行使する道具」となっています。
頭の柔らかい小中学校の時代に「植え付ける事」が「人生の礎」として必要だからです。
「従順や隷属」し易い「人」を作りたいからです。

今「改憲促進」をしている政治。
この事の「意義」を尊重する人が増えています。
でも、それは「一人の国民」としての「正しい判断」でしょうか?
「思想教育」によって「思考停止」してませんか?
「自らの意思?」ですか?
「思想教育」の賜物になってませんか?

長くなってしまったので、まとめます。
「道徳」とは「日本人の同一性」つまり「日本人であり続ける基礎」ですから「紐付き」で学ばないと「理解出来ない」事があると言う事。
そして、今の「教育制度」は「思想教育」へ繋がり「個性の喪失」を植え付けるものなのです。

そして本来「学び」つまり「学習」とは、この様な「紐付き教育」があるからこそ「喜び」が生まれ「知る事の素晴らしさ」を体現できる。
「勤勉」であった「日本人の在り方の喪失」はこの様な現実が招いて来た事なのです。
振り返る事は決して否定的な事で無く…先人から伝えられた「温故知新」の中にこそ「今を見つめる真意」がのこされてます。

ビートたけしさんがこの辺りを前提としてお話されているのかは不明ですが、彼の放った「テーマ」については、わたし自身が知り得た事に繋がったので、投稿してみました。

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