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こんにちは 赤ちゃん
共働きで生活をしていたとある日、いつも通りこれから帰ることを伝えるために連絡を入れると、
「とにかく早く帰ってきて」
と言われた。いつもなら有りえない返しである。
何事かと思い、車を急いで走らせる。
帰宅すると、怒っているわけではないが、やや興奮気味の妻がいた。
「落ち着いて聞いてね?」
大丈夫、むしろそっちの興奮の方が心配だ。
「これ、見て欲しいの」
体温計のような見慣れない棒状の物を見せられる。初めて見たもの。初めてだがそれがなんなのかは空気で察知した。
「一緒に来て欲しいところがあるの」
問われるまでもない。二人して急いでそこへ向かう。そう、産婦人科へ。
…
診察が終わる。私は診察室には入れない。入らない方が良いだろう。知っていたとしても耐えれない人は居るだろうから。
診察は確認のため、だったのだが。当たり前のようにこう告げられた、おめでたですと。予定日までその段階で告げられた。
なんだか実感が湧かないまま帰路に就く。
話によるとその段階では2mm程度の大きさらしい。
そんな小さな小さな命が、必死に存在を伝えているのだ。ここにいるよ、と。
私には流石にまだ実感は無かったが、妻は愛おしそうにお腹を撫でていた。私もそっと手を当ててみる。
暖かい。妻の体温だと言うことは分かっている。それでも、暖かかったのだ。
車の中で静かな時間が流れていく。
…
それからというもの、毎回の検診には必ず付き添った。
待合室に他の男性はいない。
私がいるその異様な光景を、私も異様に感じていた。事情は人それぞれだろうが、どうしてここには夫が、父親が居ないのかと。
どうしてこの幸せを共感しないのかと。
…
妻の悪阻は幸いにして軽かったが、白米を炊く匂いが受け付けないらしく、変則的な食事の日々が始まった。
炊き上がった後なら、及び炊き込みご飯なら食べられるということで、頻繁に作った。
昼休みに食べれるものがないというので、お好み焼きを毎晩焼いて、妻の弁当に入れた。
あまり考えもせず食べられればそれで良いという食事は終わりを遂げ、ありとあらゆることを勉強し、ただひたすら妻のため、子供のために食事を用意した。
たまたま旅行先で聞いた、加工食品に潜む多種多様の添加物による弊害の話も、そういった流れから引き寄せたのだと思っている。
おなかの中の子は、そんな想いに応えるようにすくすくと元気に育っていた。
…
出産のために受診する病院が変わり、診察が日中になっても可能な限り休みを合わせて診察に付き添った。
ただ付き添うだけというのは当初なんとも言えずもどかしかったが、私の仕事は診察を受けることではない。
夫として妻に寄り添い、不安を少しでも減らす。喜びは分かち合う。
それが私のやるべきことであると、そう思い付き添うことしか出来ない自分を慰めていた。
どうしてこうも私は無力なのか。そればかり嘆いていた。
そんな私に妻はいつも「ありがとう」と言ってくれた。
…
時は流れ、妻も産休に入り、私も慌ただしい日々を送っていた。
仕事が終われば即座に帰宅して食事を作り、暇さえ有れば妻のお腹に手を当て、おなかの子に語りかけた。
もう周産期に入っている。余程のことがなければ無事に産まれてきてくれるだろうと、そう思っていた。
一昔前、出産は常に死と隣り合わせだったということ。私はそんなことすら忘れてしまっていた。
…
運命のその日は予定日であり検診日。仕事で付き添えなかった私は妻に見送られ職場へ向かう。
夕刻、妻から電話。
「ちょっと今から入院する」
破水や陣痛かと思ったがそうではないらしい。そもそも陣痛の兆候など全くなかった。
上司に事情を話し、仕事中の通話に対しお咎めを頂いたが、早退させて貰えることとなった。
自宅に寄り、必要なものを持って妻の待つ病院へ向かう。
私が妻の元へ駆けつけた時、妻は笑顔だった。いや、笑顔になったと言うべきか。
不安にさせてしまったことを悔やみつつ、事情を聞く。
どうやら胎児の首に臍の緒が巻き付き、微弱な陣痛と共に苦しんでいるという。このまま陣痛が強くなるなら、緊急手術の可能性もあると。
妻もなんだかんだ不安そうにしている。痛みはないらしい。
こんな時でも手を取り寄り添うことしか出来ない自分が恨めしい。
数時間後、巻いていた計器の数値が振り切りアラームが鳴る。妻は少しだけ痛いと言い、兎にも角にも医師を呼ぶ。
医師がやってきて状況を確認し、緊急帝王切開を行うこととなった。
不安はない。ないと言い切ると嘘になるが、感じてはいけない。
私のやるべきことは笑顔で送り出すこと。不安を妻に押し付けてはいけない。
なにより、おなかの子が自分の苦しみをこの上ないタイミングで訴えてくれているのだ。
その巡り合わせを無駄にしてはいけない。
…
夜中、看護師から無事に出産したことを伝えられた。妻も特に問題はないと。
程なくして、看護師に抱かれて我が子がやってきた。
こんにちは、赤ちゃん。
ん、夜中だから「こんばんは」か。いや、そんなことはどうでもいい。
ただただ、こうして対面していることがとても嬉しく、そして有り難い。
産まれてきてくれて、ありがとう。
危険を必死に伝えてくれて、ありがとう。
今日から、私が君の父親だよ。
…
そうして、私の仕事が一つ増えた。
「夫」であり「父親」だ。
自分でも胸を張って誇れるよう、そして誇りに思われるよう、これからも頑張っていこう。
愛する妻と子供のために。
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