一度離れても戻ればよい

就寝は子どもたちとともに22時過ぎ、本日も深夜に目が覚めた。目覚まし時計を見ると、時間は26時。思ったよりかなり早い。これはこのまま起きだすわけにはいかない。そのまま布団で過ごす。今日は色々と調べたいこともあったので、ブルーライトカットを最大にして、スマホを触っていた。このまま眠れないかと思ったが、28時前頃だろうか、眠りにつくことはできた。ただし、再度起きたのは29時頃、つまり朝5時。ほとんど眠れていないがもう外は明るく目もさえてしまったため、致し方なく起きだす。

朝食は、余っていたみょうがを刻んで、ポン酢・醤油・ごま油・いりごま・ラー油を混ぜたたれに、豆腐を放り込んだ一品をいただいた。この味好きなんだよなあ。豆腐だが全然おかずになってしまう。豆腐丼。たれの味が僕好みなんだろう。この配合であれば肉でもなんでも、ご飯がすすむ品が完成する。

いま書いたように、近頃は異様な早起きになってしまっているので、夕方以降は頭がぼーっとする状態になってしまう。17時過ぎからは使い物にならないと言っていい。そして、本日夕方以降は、退院以降、最も体とメンタルの調子がよくなかった。まずはメンタル。病気になってから、僕は「自分の意志」以外のコントロール不可のもの、他人の意志や言動については全く気にしないという姿勢をつらぬいてきた。そのおかげで、自分でもわかるくらいに気分が落ち着き、前向きに、そして優しくなれているのを感じていた。しかし、本日の仕事のとあるやり取りで、関与しないはずの「他人の意志」に自分のこころが乱されてしまった。

その1件の解像度を上げて表現すると、「自分の発言・行動に、何らかの勘違い・間違い・知識不足があり、相手が期待するボールを投げれない。そのことに起因して、他人の自らのへ評価が下がってしまう」だろうか。
この「下がってしまう」が既にコントールできない他人の意志そのものであるし、そもそも下がったかどうかなど他人である私には分からない。冷静になるとすぐに理解できる理屈なのだが、相手へのボールが外れてしまったと認識した瞬間に、発作的に後悔と羞恥を中心としたネガティブな感情が想起されてしまうのだ。

この「他人への評価を気にしすぎる」については、自ら自覚できるほどに、僕の思考様式の強い特徴だ。わるいことばかりではなく、相手の感情の読み取りや、些細な兆候への感度という意味では、ポジティブに働くこともある。一方、個別コミュニケーションを前提とした対人関係においては、その特徴がネガティブ側に触れることも多い。まず、僕は何か負の可能性を察知したときに、他人の感情や思考を勝手に妄想し拡大させる悪癖がある。相手が口に出して言ったこと以外は、すべて自分の頭の中で作り上げた存在しないものなのに、あたかも確かな相手の感情であると思い込んでしまう。しかもかなりリアルに。ポジティブに言えば、想像力とイメージ力が高いのかもしれない笑 でも本当にそう思えてくるのだ。

退院後の穏やかな心情は、この悪癖から離れられていたことが大きな要因のひとつだったと思う。自分の意志以外はすべてコントロール不可。ゆえに気にする必要もなければ、感情を動かされるものではない。この姿勢の継続が成功していたのだ。しかし、今回のやり取りでまた悪癖が顔を出してきた。ただし、以前と違う点もある。それは、発生した感情を俯瞰して観察することはできていたということだ。その点では少し感情の揺れを戻すことができていたように思う。

ただ、帰宅後も感情の揺れの影響は継続していた。退院後、明確に、一番負の感情が浮き出てきた。簡単に言うと普通にイライラしていた。以前の僕と同じだね。一度感情を揺さぶられると、その後への悪影響にもつながるんだな。まだまだ感情の観察、制御の「訓練」が足りていない証拠だね。エピクテトスが言っていたように、重要なのは訓練と、一度離れてしまったら、すぐに「あるべき場所」に戻ることだ。僕は今日、夕方以降離れてしまっていた。ただ、離れることがわるいわけではない。戻らないことが悪いのだ。この日記執筆でリセットして。またいるべき場所へ戻ることとしよう。



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