AIおじいちゃん

昨晩は、翌日が久しぶりの在宅勤務だったため、気が緩み遅くまで自宅で飲酒してしまった。就寝は26時頃。当然、翌日(正確には当日だね)の在宅勤務中も影響が出ており、終始頭が回っていない状態であった。やはり飲酒は休日前に限定するのが賢明である。

勉強について。現在の部署に異動となり、学習意欲が上向いていたが、なかなか実行の習慣がついてこない。テキストや書籍は購入して準備は完了しているのだが、思うように学習が進んでいない。

この三連休は勉強・読書デーとしたいところだね。購入してそのままであった小説もある。どこか遠くへ出かける予定もないのだから、家族のみんなと、1日を丁寧に楽しく過ごそう。「丁寧に」が大事である。

せいかつの「丁寧さ」について、いつだったか、所ジョージさんがYouTubeで言及したことがあった。その時に例に出していたのが、「お茶を飲むにしても、ちゃんと湯飲みに入れて飲むのが丁寧なせいかつ。適当に紙コップに入れて飲むのは丁寧とは言えない」表現の仔細に差異はあれど、ざっくりとこのようなことを言っていた。

完全に同意である。日々のせいかつが乱れると、こころも乱れてくるのを如実に感じる。部屋の乱れも同様だね。せいかつの中の何でもないパーツを、ひとつひとつ丁寧に扱い、味わう。何か突飛なイベントやサプライズなんてものは必要ない。自分がいる空間をきれいに整え、落ち着いて思考・行動さえしていれば、良いリズム・気分で日々を過ごすことができる。

その達成の大きな一助となるのが、何度も書いている通り、このnote執筆習慣だ。せいつかのリズムの中にある休止符。乱れ、疲弊していたとしても、ここに戻ってくれば心地良いエリアへ回帰することができる。今現在も、子どもたちを寝かしつけた後、部屋に戻り、テレビモニターで川のせせらぎ音癒し映像を流しながら軽快にタイピングをしているところだ。良いリズム。

ところで、noteはいつまでサービスが続いていくのだろうか。僕はこの毎日執筆習慣をやめるつもりはない。何か大きな転換点がない限りは、30年、40年と続けている可能性がある。もしそうなると、記事の量が凄いことになるね。

このnote執筆習慣は、妻には毎日書いていることは伝えているのだが、執筆場所がnoteであることは特段説明していない。どこに書いているかなんて、あまり興味もないだろうし、もとより自分以外のだれかにオープンになることを望んではいない。ただ、もしこの習慣が数十年レベルで継続したとするならば、僕が死んだあとに、息子や娘、さらにはその子どもたち、孫の世代が発見するのは面白いかもしれないね。

あと40年で計算すると×365日で=14,600記事である。この異様な量は読む気も失せるかもね(笑) あぁ、でもそのころにはAIに僕の膨大な文章データを読み込ませて、何らかのアウトプットができる技術水準には到達していそうだな。それもまた面白い。僕の分身をメタバースやホログラムで作り出すことも可能かもしれない。この夢想が実現するならば、今日の記事には言及してほしいね、おじいちゃんは2023年時点で気付いていたよ。とね。

文章を書くと、頭の思考だけでは飛ばない道に寄り道できる。今日の後半はそんな脇道散歩。


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