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世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい

中高生の時、何回自分に言い聞かせたかわからないこの言葉を、書いたその人は近年なぜか語彙にトゲがあって、なぜか断罪的で、彼の本を読むのはもう数年辞めていた。

縁があって久しぶりに読んだ著作。年末に文庫版が出版された『FAKEな日本』――――「文庫本のためのあとがき」まで読み進めたところで、めちゃくちゃ泣いていた。別に特に感動する話ではないし(どちらかといえばただ世の中に幻滅する話)、彼はいつも同じことを言っているから驚きもない。中高生の頃、著作も映画もトークも追いかけていたからわかる。テーマが変わるだけ、行き着く先はいつも同じだ。でもそれがすごく辛かった。

おそらく彼が描いていた悪い未来予想のど真ん中を走る、もしかしたらそれ以上の泥道につっこんでいる世界を見ながら、彼は変わらず同じことを言っていた。でも、明らかに今までで一番絶望していた。だってずっと同じこと言っているのに。「なぜか」じゃないよな、語彙にトゲも出るよ、だって、ずっとだよ。

「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」
そう言い切った人が、絶望する今日までに、私が見て見ぬ振りをした沢山のこと。自分のことに手一杯で気が付かなかったこと、格好悪いから触れなかったこと。その間もこの人はずっと戦ってきて、とがって、怒って。それを、最近ちょっと見るのしんどいんだよねーと横目で見ていた自分の、なんだろう、この、きたないかんじ。泣いてしまって、ずるいの上塗り。

この言葉だって決して明るい土壌に根付いたものではなくて、豊かじゃない世界と、優しくない人を蕩々と見せつけられたあと、だからこその「もっと豊か」だし、「もっと優しい」だった。言ってしまえば空虚な可能性の話、空元気の豊かさと優しさ。でも、そう信じてくれる大人がいることは、時々人間やめたかった私にとって支えだった。ついでに、正と誤の二元論世界で猪突猛進していた小学生の私に「たちどまって考える」やり方を、教えてくれたのも彼だった。親の次に、私の生き方に干渉している人ですらあるかもしれない。

ここ数年ずっと、恩を仇で返し続けてきた。終始ゼロヒャク人間なので、仕事に摩耗しながら、情報を取捨選択する気力と自信がなくて、ニュースは見ていない。新聞は意地でとっているけど、中まで開かない日の方が多い。考えなければいけないと思っていることから目を背けていると、時々本当にしんどくなる。いまの私の生き方は、世界へのゆるやかな加害じゃないのか。

あのひねくれた、媚びない人は、まだ世界と人を信じていると思う。
だって絶望しながら本なんか書けるんだろうか。小説でもないのに。
本当の絶望は、多分私の目に見えるところでは起こらない。それが本当に申し訳なくて辛い。今日はニュースを見る、新聞も読む、そう書こうと思って、やっぱりどうしてもできない。今日だけにならないと、どうしても、言えない。

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