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また1年ほどが経った映画雑記②

 昨年は、平均すると月に3本も観られたかどうか。インプットが足りていないと理解しながら、アウトプットだけ続けるというのはつまり、収入がないのに貯金を崩しておびえているということで、心がとても貧しい。
 
JUNK HEAD
 最近しばしば会うようになった中高時代の友人と観に行った。
 良いとか悪いとかではなく、ただ確実にやばいものを見てしまったぁという感覚。終盤にさしかかるにつれ「絶対に収集がつかないぞ」と不安になっていたら見事に収集がつかないままエンドロールに突入した。終演後に「壮大な三部作の幕開け」となる作品だったと知る。予告編に書いていなかったのは、最初から三部作っていうと敬遠されるからだろうか。
 こういう謎の広がりを感じる作品の創成期に立ち会えるのはすごく心が躍る。ようするに、いつかメジャーになったら古参ぶりたいのである。
 
 会社の「絶対にこういうの好きそう」な同僚に薦めたところ、やっぱりどハマりしていたが、一緒に行った彼女に面白くないと切り捨てられてめちゃくちゃ腹が立ったと言っていた。要らぬ不和を生んでしまって申し訳ない。


スウィング・キッズ
 コロナワクチンの副作用で、活字を読むこともできなかった日に観た。
 朝鮮戦争当時、捕虜収容所のイメージメイキングのために所内で結成された、戦争捕虜によるタップダンスチームの話……という以上の展開を言ってしまうと元も子もない感じなので、陳腐な言い回しだけど、気になったら観てほしいとしか言えない。あらゆる角度から見た弱者が絡まり合うマイノリティの物語でありながら、意地でもエンタメの崖淵にかじりつくのだという気概に、制作者への敬意で胸が詰まる作品だった。

 友達がインスタグラムで、副作用タイム用のおすすめ映画を募集してたので「私はこれ観ました」と送り付けたが、熱で弱った人に薦める作品ではないよな、と送ってから思った。案の定「すごい悲しいんだけど……」と連絡がきたので申し訳ない気持ち。罪滅ぼしではないが、ちゃんと最後までなにも考えなくていい韓国映画もあるのですという気持ちでエクストリーム・ジョブ(※警察の麻薬捜査班が、めちゃうまフライドチキン屋さんを繁盛させる話)も薦めておいた。すごく笑えるし、存外泣ける。

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 書きながら気づいたけど私、人に映画を薦めては申し訳ながってばかり。何がしたいんだ。自分の「好き!!!!!」が先行して人の気持ちを考えられないので「おすすめ」という営みが本来的に苦手だけど、「見たよ!」「読んだよ!」の連絡は、誰からのどんな感想でも嬉しいものだなぁと思う。映画を一本みること、本を一冊よむことにどれだけの体力と気力が要るのか、近年では骨身に沁みているので、より一層のことである。

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『竜とそばかすの姫』 
 巨大エンタメ作品については、なるべく観て勉強せねばならないと自分に課しているので、予告編で一抹の不安は覚えながらも劇場へ。
 美女と野獣がシャンボール城で踊り明かすシーンは勿論あったし(あった)、サツキがバスに揺られて母のお見舞いに行くシーンも(ない)、「あなたの名前は、みぎはやみ……」のシーンもあった(あったよね?)
 もはや創作物はすべからく何かのオマージュである時代に生きているつもりではいるんだけど、その持ってこられたセリフ、シーン、キャラクター、全てがどこに向かおうとしているのか、目的地を探し続けて、結局見つけられずにドッと疲れてしまった。

 「没入感」「映像美」「神作画」……この作品に限らずアニメーション全般に対して、そういう誉め言葉がいまいちピンとこない。ティモシー・シャラメを眺めているだけで満足する映画とか普通にあるので、内容至上主義でもないはずなんだけど、こと「アニメ」となると、美しさやリアルさにうまく価値を見出せない。(下に続く)


 
TRUE NORTH
 (続き)リアルな質感のアニメーションに対する熱量は年々、しかも若い人の間で高まっている気がするので、このピンとこなさは、わたし側のズレなんだろうな、とネガティブに捉えていた。以前からアニメを観るたびに理由を探していて、ぼんやり分かってはいたんだけど、この作品を観てようやく言語化できるところまで腑に落ちた。

 『TRUE NORTH』は1960年代の帰還事業で北朝鮮に渡った在日朝鮮人の母親と幼い兄妹が、(父親が政治犯として逮捕されたために)強制収容所に収監されるシーンに始まる。朴訥とした3Dアニメで描かれるのは、一貫して凄惨を極め、死と隣り合わせな強制収容所での生活である。

 もしかすると、アニメでなければ、最後まで観られなかった。
 過不足のないリアルを受けとめるには、相応の気力と体力が必要で、私にはそれが足りないことがよくある。これを観たのも丁度そんな時だった。
 そして更に、不思議なことだけど、今まで多く観た戦争ドキュメントや、例えばナチスの強制収容を描いた実写映画、そのどれよりもこの作品が正確に頭と心に焼きついた。凄惨なシーンの衝撃に塗りつぶされない物語は、欠けなく繊細に記憶され、現実では踏みつぶされすぎて見えなくなっていたかもしれない人間の尊厳が、辛くも立ち残っていた。

 私がアニメーションという表現技法に対して感じる価値は、それがリアルをいちど分解して、再構築してくれるところにあるんだと思う。
 そこには、伝えたいことがある。キャラクターも、セリフも、そして現実でさえも、その目的に一寸の無駄も無く奉仕している。誰かが確かに過ごした血の滲む現実が、要素として分解され、物語として再構築される。その過程で失われるリアルさは、喪失ではなく選択。取捨選択の【捨】だ。

 経験していない事への想像力が欲しいと思って、観たり読んだりするけれど、経験と想像を超える事実を過不足なく受け取るのは、実はいつでも誰にでもできることじゃない。仕事や私情で気力・体力ともに尽きていることもある。でも虐げられている人の時間は止まらないし、私の人生の事情は、彼らの過去や今を知ろうとしない理由になりはしないのだ。

 そんなとき私は、アニメが「要る」と思う。
 アニメの【捨】って、弱い私にも物語への門扉を開いてくれる優しさだと思っている。(児童書とかも同じかな)そしてその優しさは、「弱くて普通な」私のような人にも物語を届ける必要がある故に生まれたものなんだと。
 そういえば、『この世界の片隅に』を観た時も同じようなことを考えて、そのままどこにも書かずに忘れてしまったんだった、とぼんやり思いだす。


TOVE
  「ムーミン」を生んだトーベ・ヤンソンの伝記的映画と聞いて、行かねば! と思っており、友達に映画に誘ってもらったのでこれ幸いと出かける。その日はなんとなく彼女に感想を聞かなかったんだけど、たぶんムーミンが好きな人ほどちょっと物足りなかったんじゃないかなぁ。
 作家として以上にリアルな彼女の生を描くためなのか、ファンタジックな要素がかなり意識的に排除され、悪し様に言うと、色恋沙汰ばかりだなと辟易してしまった。なにより「同性愛」という事象が、彼女自身が捉えていたよりもドラマチックに描かれすぎているのではないかと気にかかり、何だかヤキモキしながら、人の生涯を垣間見ている数時間だった。

 性的アイデンティティが「芸術家のエキセントリックな一面」的な文脈で消費されているのを見ると、居心地が悪いと感じる。でも、この作品を観た数週間後に訪れた「ムーミンバレーパーク」の展示では、トーベの交際相手達について、巧妙に(と言わざるをえないほど巧妙に)詳細を避けた記載がされており、そうか、そうか、と項垂れた。大切なこと、少なくともこの作品を作った人が必要だと思ったことが視えていなかったのは、私の方だ。


シャンチー
 おもしろかった! 『オーシャンズ8』や『クレイジー・リッチ!』で大好きになったオークワフィナがヒロイン(?)と聞いて期待だったけど、やっぱり彼女がすごく良かった。VOGUEの「オークワフィナに73の質問」という動画もユニーク&ナチュラルでとても素敵なのでぜひ見てほしい。

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2022年は、色々な意味で、もう少し豊かに生活したいと思う。
森が無くなる前に、木を植える日がある年にしたい。がんばっていこうね。

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