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豹変-⑥

 幼い頃から特に社交性もなく、習い事もさせて貰えなかった為これといった特技もない子どもだった私。本が好きだったからか、文章で度々賞を獲ったりはしていた。中学、高校は吹奏楽部で、なかなか有名な高校で上の大会に出場したりもした。友達の付き添いで行った専門学校のオープンキャンパスで、ウェディングプランナーという仕事に魅了されそのまま入学を決意。1番憧れたリゾート会社には落とされたものの、必ずこの仕事を手にする為にリゾートの場所を選んで来たのだ。

 父と母は、その地までの飛行機に乗り、娘の嫁ぎ先を訪ねた。両親はふたりだけのつもりでいたようだが、ぎりぎり飛行機に乗れる月齢だった私も同行して。
 母は何度か「こんな所にやらなければよかった」と漏らしたが、私の夢だったことを考えてか口を噤んだ。

 「両家の挨拶もなされないままながら、扶養に入るために籍を入れる事は許したが、この様な状況なので、まずはご挨拶をと思い来訪しました。」「その上で、君の気持ちを聞きたい。」と父。「うちの娘は親の私たちでも頭に来る時があるほどわがままで至らない。それは申し訳なく思っている。でも子どもがもうすぐ産まれるこの状況で、ただ黙って見過ごすことはできない。別れるならばお金の事もきちんとけじめをつけるために今日は来ました」と母。
「別れるつもりは、無いのだと思っています……」の様なことを、義父。「甘やかしすぎました……」と、義母。正直、このふたりの言った事はさほど記憶に残ってはいないが、特に重要視していないような印象は記憶している。当の本人の旦那はというと「がんばりたいと思っています……」以上。

 様々な話を交わしながらも、
あれだけ別れたいと言っていた奴からは、はっきりその言葉が聞けず、両親は「その言葉を信じていいんだよね?」という念押しの形で話し合いは終了した。

 子ども時代は我慢ばかりで、田舎過ぎてつまらなかったと感じていたが、両親の行動と言葉に、初めて私に対する想いを実感した。

 その日、久しぶりに会った私たちは久しぶりに住んでいた部屋で一晩を過ごした。5月のあの日に離婚届を突きつけられ罵声を浴びせられたその部屋。
「やっぱりお前がいた方が落ち着く」などと言われ、私の緊張感も解けてきた頃、打ち明けられたのは莫大な借金と、何枚にも渡る返済用カードだった。親の前ではそんなこと何も言わなかったのに。
 そして翌日。私は出産のため再び実家へ戻った。借金の存在を知らない両親は、「まぁ、ご両親にも会えたし、本人から一応きちんと決意表明も聞けたし…一旦は信じていいだろう」と安心の様子でいた。
旦那からはこまめに連絡が来て、その声色は穏やかだったため、これまでにないほど心穏やかに日々を過ごしていた。私が臨月を迎えた頃、発覚したのは、ある女の存在だった。

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