曖昧さ
GWに人間の二面性についてディベートをした。
会場は高速道路の車中、時刻はバーベキュー終わりの夜21時頃
始まりは全く記憶に無いが突然始まったことは憶えている。
この行動の裏には、
「俺らこんな突飛なことやっちゃうの面白いでしょ」
と言った底辺ユーチューバーの演出された奇天烈さのようなものが少なからずあったことは言うまでもないが、きっと人なんて奇をてらいだかるものである。
あと底辺ユーチューバーってなんだか見ちゃうおもしろさがある。
ディベートと言ってもただ話しただけでしょと思われるかもしれないが、
しっかりと”人間には二面性がある”『肯定派』、『否定派』の二組に分かれて討論を行った。
この時点でキモいのは確実だけど、
自分は人の考えを聞くことや一つのテーマについて話し合う時間が好き。
だからとても楽しかった。
肯定派の意見としては
善と悪、陰と陽、表と裏、本音と建て前があるように相反する性格は存在する。
同じ状況においても相手によって態度や行動を変えることがあるということはそういうこと。
否定派の意見としては
表と裏のような二面性があるわけではなく、開けた一面の中に善の部分、悪の部分というように部分的に存在するもの。
そもそもどの人間がどの視点から見るかで変化するものであり、捉え方による。
まず肯定派、否定派の最初の訴えはこんなところであった。
ここからお互いの意見を受けての会話が繰り広げられる。
ハイライト的に場面を掻い摘むと、
否定派の
「心を一面の壁として捉えたその中にいくつかの性格が部分的に存在する」
という意見に対しては、
「その中でも相反する性格や行動は必ずあってそれを二面性というのではないか」
という反論が生まれた。
さらにすぐさまそれに続いて、
「心は一面の壁のようなものではなく、地球のような球体で地球に朝と夜が来るように人間にも善と悪、陰と陽、表と裏それぞれが存在する時間がある」
という意見が挙がる。
なんとなくこれは肯定派優勢かと思われた空気の中、いつもお調子者な友人が口を開く
「そもそもその地球自体が”一つ”、”一人”であるのだから、善も悪も陰も陽も表も裏も結局は外から見れば一つの球体であって全部”その人”なのではないか」
『だから、二面性なんてものは存在しなくてただそれがその人なんじゃない。。。』
その言葉は車内の密閉された空間に漂い続け、
なんか誰もがこれは結末に向かって進んでいるということを認識せざるを得ないような綺麗な纏まり方をしたし、
これまでの彼のフリがあった分とめどなく心に差し込むものがあった。
と思ったが、まだ納得していない男が一人いた。
彼が反論の意見を捲し立てようとしたところで夕食の目的地であったサービスエリアに到着し、
強制終了となった。
さすがに車が結末に向かって進んでいたらしい。
ディベートでは肯定派と否定派の二組に分かれることが必須であり、そうしないと成り立たない。
ただ、ディベートが終わると
肯定派のあの考えには納得せざるを得なかった。
とか
否定派のあの意見は、めちゃくちゃわかりやすかった。
といったような感想が自然と出てきて、
どこかいい試合をした後のスポーツマンシップじみた空気感があった。
たぶんそういうことで、
というのも、何かを成り立たせるためには形式上対立構造を用いることが多く、
それは言語化しやすかったり見やすかったり分かりやすかったりするからだと思う。
どちらかに形式的に当てはめたり、ラベリングをすることは何かを円滑に推し進めていくには必要だし安心感がある。
でも、結局はディベート後褒め合っていたように、
どちらでもなかったり逆にどちらでもあったりする部分というのが絶対にあって
またディベートの地球に喩えて話すと、
”日の出”、”日の入り”という定義はあるけれど
”朝のようで夜の時間”、”夜のようで朝の時間”といったどちらでもあり、またどちらでもない時間は確実に存在すると思う。
そういった曖昧さが人にも確実に存在していて、
性格なんて固定的なものでなくて流動的で不確かなものであるから人ってわからないし、
自分でさえわからないし、、
でもそうやって
全部を自分だと、その人だと、
受け止めて関わっていくことが大切なのかもしれないなと
ふとGWを終えて思いました。
GW友達とたくさん会えてたのしかった!!!
おわり
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