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自分らしく生きる


新型コロナウイルス感染症の濃厚接触者となり自宅待機になった。
時間があるので、最近の自分の人生についてまとめてみようと思う。

何か同じ思いをしている人の支えや後押しに少しでもなれば嬉しいです。



僕は仕事を辞めた。社会人一年目で。

所謂、早期離職と言うやつ。

早期離職の中の早期離職。

前職では小学校の教師をやっていた。

自分が児童・生徒の立場の時は皆勤賞をもらうような子どもだった。

それが、大人になって教師という立場になって学校に行けなくなった。

今考えると理由はたくさんある。

でも原因として一番大きかったのは、一人の児童に入り込みすぎてしまったことだと思う。
(そういうことにしている。)

その児童の母親は父親(夫)からDVを受けていた。

そして離婚した。その子は当然、母親についていったが母親はすぐに次の男と再婚した。そして僕の赴任された学校に転校してきた。

「彼、人間不信だから。」

と、教務主任に言われた。弱冠8歳にして誰も信じることができない。

自分の受け持ったクラスにそんな児童がいた。

さすがに自分が助けてあげないと

と思った。

まずはできるだけコミュニケーションを取ってみようと思ったが、全部ことごとく突き放された。

そりゃそうだ。急に担任になった知らない大人が話しかけてくるのだから。

授業は受けてくれなくて、奇声を上げて邪魔をしてくるかトイレにこもってしまうか、移動授業ではその場から全く動いてくれない。

自分の思い通りにならないと、暴言を吐き、暴れ、時にはクラスメイトに手をあげようとしてしまう。

でも彼はたぶん、注目をされたかったのだと思う。自分のことを見てほしかったのだと思う。

だから、どんなことがあっても自分は逃げずに注目してあげようと思った。

でもやっぱりそう簡単にはいかない。教室には他の子どももいて、

その子たちの方が多いのだから。

周りの先生には、”切り捨てることも必要”だと言われた。

「その子ばかりに向き合っても、他の子どもたちを見捨てることになるよ」と。

分かっていたけど、彼を無視するのは難しかった。

彼にもいいところはたくさんあった。

学活の授業で学級の目標を決めるときに、彼は一番に

みんなが幸せになるクラスにしたい

と言った。

言っていることとやっていることは乖離していたし、
本心かは分からないが、嘘でも嬉しかった。

少しでも思っていないと出てこない言葉だろうし、、

それに、彼は絵を描くのが上手だった。

みんなが様々な色を使ってカラフルな絵を描く中、
彼は鉛筆で黒しか使うことはなかったが、それでも素晴らしい絵を描いた。

あとは、生き物が好きだった。

彼はすぐに「トカゲ飼っていい?」

と聞いてきた。もちろん承諾した。

彼は大切に世話をした。トカゲに対して誰よりも優しかった。

休み時間しか世話をしちゃダメというルールだったが、授業中も見に行って世話をした。

感受性が豊かな子なんだなと思った。自分なんかよりも全然。


すぐに家庭訪問があった。

ここでは、彼のことをA君とする。

他の児童の保護者の方から、

「A君にばかり対応して、周りへの配慮はできているんですか?
他の子たちも辛い想いをしています。」

と言われた。

分かっていたことなのに、できていなかった。

目に見えて助けなきゃと思う子ばかりにケアをして、
周りの子のケアまで行き届いていなかった。

どうすればいいか分からなくなった。
というか自分の今の力では無理だと思った。
無力感に襲われて涙が止まらなかった。


それでもA君とは休み時間に2人で何度か遊んだ。

2人でサッカーやドッジボールをした。

A君はその時だけ僕に優しい、子どもらしい笑顔を見せた。

手を繋いでくる時もあった。

心を開いてくれたのかもと思ったが、そんな単純なものではなかった。

A君は僕に何度も言った。

「お前なんか嫌いだ。全員死ねばいい。」

そんな言葉に傷付いていないつもりだったけど、少しずつ傷付いていたのかもしれない。

暴力も止まらなくなった。

僕に対しても、周りの児童に対しても。

休み時間になれば必ず問題が起きる。

教卓で丸つけをしながら、目を背けてしまう時があった。

休み時間は授業のときのA君のようにトイレにこもるようになった。

ただでさえ、他の仕事や授業の準備で一杯いっぱいだった。

周りの先生がみんな帰っていく中、残業をして夜遅くまで残るしかなかった。(教員なので当たり前に残業代は出ない)

でも、人がいないから分からないことがあっても聞く人がいなかった。

職場はわりと遠かった。

使命感なのか不安を紛らわしたかったのかわからないが、休日も学校に行った。

でも休日も誰もいないから、自分で何とかするしかなかった。

誰もいない学校でただただ時間だけが過ぎて何やってるんだろうと思った。

常に心の片隅には仕事、A君が居座り一時も心が休まる時間が無かった。

嫌なことが控えている前日が日常となっていた。

黙っていても人って誰も助けてくれない。

そのうち、仕事のことしか考えられなくなっていたことに気付いた。

あんなにたくさんあった趣味も、全く興味を持てなくなっていた。

というかそんな時間すらなかった。

友達と連絡も取れなくなっていった。

さすがに自分の中で何か変えないとと思った。

授業準備に時間を掛けすぎていた。

教頭先生に相談してみた。

「最初なんてできなくて当たり前なんだから、適当でいいよ。手を抜かないと。」

たぶん、優しさのある、愛のあるアドバイスなんだろうけど、僕が聞きたいのはそういうことじゃなかった。

適当に授業をするのが嫌だった。

子どもたちに申し訳ないし、自分にとっては長い目で見れば何回かの内の一回だけど、子どもたちにとってはその授業を受けることはその一回しかない。

いや、良く言い過ぎたが、
考えすぎで自分の考え方が固かったし要領が悪かったし、子どもたちのためと思っていたけれど自分のためにやっていた。

自分はもともと心配性で何かをやるときにしっかり準備をしていかないと気が済まない性格だった。

明日の自分が授業の時にしんどくなるのが嫌だから、
自分のために学校で遅くまで授業準備をし、家に帰ってからも寝落ちするまで準備した。

徐々にしんどくなっていった。

寝たら明日がきてしまうから夜寝るのが怖くなって、寝られなくなった。

寝られても1時間おきに目が覚めるし、首を絞められたり何かに追いかけられる夢ばかりで悪夢しか見られなかった。

でも太陽が顔を出すと休む訳にはいかないから、
無理やり体に鞭を打って何とか車に乗り込んだ。

人間って意外と丈夫だと思った。

学校に近づくにつれて緊張とそのまま通り過ぎてどこか遠くへ行ってしまいたい気持ちに襲われた。

学校に着くと先生というもう一人の自分を演じるしかなかった。

なんだか自分の身体の強さに腹が立った。

こんな生活をしていても倒れない。途中からは倒れられたら楽になれるのにと思っていた。

それか不謹慎だが、事故に巻き込まれたいと思った。

だがそんな生活は長く続くはずもなく、ついにある日学校に行けなくなった。

その日は朝起きると布団から出られなかった。

このままじゃ遅刻する。
起きないと、早く準備しなきゃ、と頭では分かっていたけど、体が完全に拒否して言うことを聞かなかった。

休んだら楽になると思っていたが、休んでからの方がしんどかった。

自分は何をしているんだろう。なんて役に立たない人間なんだろう。

迷惑しかかけていない。何で生きているんだろう。

友達にも気を遣わせるのが嫌でほぼ誰にも言えなかった。

連絡をくれる人もいたけど、なんかすべてが嫌になって無視してしまっていた。

その時、家族の状況も良くなかったというか最悪で、
家の中でも居場所が無かったしほんとに地獄って存在するんだと思った。

神様なんていない。こんなに追い打ちかけてこなくてもいいじゃんって思った。

あの時連絡をくれたのに無視をしてしまって、
連絡できなかった友達、この場を借りて謝ります。

ごめんなさい。

たぶんなかなか言い出せなくて無視をしてしまったままの人もいると思う。

ごめんなさい。

それでも関わろうとしてくれてありがとう。





僕にとってその地獄のような日々は4ヶ月程続いた 

自分の今までの人生を全て否定しながら、一日一日過ぎていく。

生きているだけでこんなに辛いなら生きることを辞めようと思った。

本気で辞めようと思ったけど、実際行動に移そうとすると少し怖かった。

前にも後ろにも進むことができない。

現状維持すらできない。

徐々に魂を削られていく感じがした。

そんな生きているのか、生きていないのか分からないような毎日を過ごしていたある日、

突然、自分に手を差し伸べてくれる人が現れた。

その人は、外の世界を見るべきだと僕に言った。

今は視野が極端に狭くなってしまっているから。
そうなってしまうのは分かるけど、君はまだ若いし、
世の中にはいろんな生き方や働き方がある。
だからまずは外の世界を知ってみよう。

そう言ってくれた。

最初は正直、こんな怪しい人について行って良いのか
不安に思ったけど、この手を掴まなかったらもう次はない気がしたからしっかりと離さないように掴んだ。

僕にとって本当に一筋の光、希望だった。

僕をどん底の闇の中から引き上げて、外の明るい世界を見せてくれた。

そして、以前書いた「居場所」という記事で記したボランティア活動を始めることになった。


ボランティアを通して子ども~高齢者と関わり、今は障がいのある方と関わっている。

活動を経て視野が広がったし、偽善かもしれないけど自分も誰かの役に立つことができると思えた。

僕が最近関わっている業界を一括りにして名称化すると福祉という。

皆さんは、福祉というとどんなイメージを持つだろうか。

介護とか、障がい者とか、大変そうとか、給料少なそうとか。。。

そんな感じだろうか。

正直、少し前まで僕もそう思っていた。

でも実際にボランティアを通して、自分がその中の一員として経験してみて、こんなに思いやりのある素敵な業界はないと思った。

今働いている会社は、障がいのある方が自分らしく仕事を行える就労支援事業所である。


?って感じだけど

簡単に言うと、障がいのある方に仕事を提供する仕事である。(少しややこしい)

社長は言った。

「全ての人が、自分らしく働き、生きていく権利がある。」

「それは障がいのある方だけでなくて、自分たち従業員もだ。」

就労支援の新しい時代を創る。

社長は15歳のころに福祉業界の現実を知り、いずれは独立し自分の思い描く福祉を目指すと決めたという。

福祉は大変だし稼げないと思われているが、そんなのはやり方次第で、

一般企業と遜色ないぐらいは稼げるから安心してと。

「僕は君を一度失敗した人間だなんて全く思っていないから。」

とも言ってくれた。

今の会社は、福祉福祉していなくてどちらかというと聞こえは良くないかもしれないが、福祉を一つのツールとして捉えて仕事にしている。

また、事業は福祉サービスだけでなく、エコ・リユース事業、園芸事業も最近本格的に始まり事業拡大をしている。

これからもワクワクするような事業がどんどん拡がっていくだろう。



半年前までは、もう人生終わったと本気で思っていた。

自分なんて必要ないし、生きるのなんて辛いだけだと。

でも今は違う。毎日学ぶことだらけでワクワクして仕事ができている。

たぶん自分らしく働けている。


「自分に合う職場」「自分らしく働く」ことなんて絵空事にすぎなくて、自分を殺して、やりたくないことでもやるのが仕事だと思っていた。

勿論、仕事なのでそういった側面もあるのだろうけれど、

もしかすると誰にだって合う環境や仕事は存在するのかもしれないと思えた。

だから、今仕事で辛い想いをしていて辞めたいとかもう無理だとか悩んでいる人に

無責任に「辞めても大丈夫だよ」とは言えないが、

自分みたいに新しい居場所を見つけて、

「何とか生きていけている人もいるよ」

ということを知ってほしい。

正直、自分の社会人人生は間違いなく大転けして最悪のスタートを切ったし、汚点だし、こんなところで堂々と言っていいようなことではなくて恥ずかしいことかもしれないけれど、

この道を選んで良かったと思えるような人生にしていくしかないから。

この道を進んでいくしかないから、強く生きるしかないから、


これからも前向きに楽しく生きます。


そして、もちろん仕事に対する価値観は人それぞれで、働くことが全てではないけれど、
自分の周りの人も自分らしく無理なく生きていけることを願います☺︎




おわり

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