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18歳の春と一緒に見つけたい自由がある

今年もあの季節がやってきた。

”髪染めた!”
”ブリーチした!”

そんなSNSでの言葉が行き交う、髪色の自由に目覚めた18歳が街中に溢れる季節だ。

ほんのり茶色に染める人、ブリーチで金色にする人、そこにピンク色を入れる人。黒からどれだけ離れた色を選ぶか。それはまるで、高校までの校則に縛られた世界からどれだけ離れたいかを映し出しているような、大人になりたい心が見え隠れする瞬間である。

この瞬間が、私は好きだ。好きに羽根を広げられる喜びを思いだせるから。自らの手で生き方を選べる幸せはついつい忘れがちだけど、手を伸ばせばすぐ届くところに選択肢がある状態はいたって恵まれた暮らしだということも少しずつ分かってきた気がする。

そしてこの頃は、自由の先にある”何か”に想いを馳せるようになってきた。何かの正体は、正直まだ言葉にできない。

ただ、自由を手にした18歳を見る度に「でも私は、黒髪の頃の君が好きだよ」と呟くようになったのは、恐らく自由とは違う”何か”に気付き始めている証拠だと思う。

この”何か”とは、なんだろう。”何か”を、知りたい。そう思い、迷い、止まりながら、今文章を書いている。

18歳の春、茶色の自由を身に纏った日

数年前までは彼・彼女らと同じように髪の毛が黒くないことへ憧れていたし、ちょうど5年前東京へ舞い降りた時は一目散に美容室へ駆け込んで茶髪デビューをした。

だけど初めて目にした茶色の髪にはどうしても愛着がもてなくて、たった3日で黒染めをしてしまった。3日坊主ならぬ3日茶髪だ。そこから半年ほどは地毛よりすっかり黒い髪を愛でようとしたけれど、童顔も相まって中学生にも見られかねない自分が嫌になり、数ヶ月後に再び美容室へ駆け込んだ。

その頃は綺麗で可愛い先輩方のようになりたいと、大学時代の中では比較的美意識高めな時期だったし、何よりその後3年以上一緒にいるパートナーと出会った時期でもある。茶色い髪に希望を託し、少しでも大人っぽくなりたいともがいた

念願の茶髪を手に入れて3週間ほどで、本当の美意識を試される時期に差し掛かった。プリンだ。

綺麗に染め上げられた茶色 vs.根元からじわりじわりと近づく地毛

既に何年、何ヶ月と染色した髪とともに過ごした人を見ていると、この茶色と黒色の戦いをいつ終わらせるかがその人のマメさを表しているようにも感じた。一方、次に目指す髪色を考えて、この戦いをあえて終わらせない人もいたが、最低限気を遣っている人に見えれば良かった私は、迷わずこの戦いを終わらせる選択をした。

そうして、染め直してはプリンになり、また同じような色で染め直すことを2年くらい続けた。ただ、髪を染める理由が「地毛じゃない方が大人っぽそう」というなんとも適当な理由だったので、特にブリーチしたい!なんて大胆な欲求が生まれることもなく、終始ちょっと茶色い髪と過ごした2年間だった。

そして大学3年の春、半年後に迫った教育実習に向けて初めてプリンを放置する選択をした。が、半年放置したぐらいで髪が全部地色に戻ることはなく、仕方なく限りなく暗い茶色を被って実習生をやりきった。

ちょうどこの頃から、髪を染める意味が良く分からなくなってきていた。

髪のダメージを考えて自分で染めたくないけれど、色を維持するために美容室に行くには手間もお金もかかる。

「面倒だな」

茶髪を冷静に見るようになってから、別に地毛のままでいい、むしろ地毛がいいくらい思うようになっていた。

それからというもの、なんとか全部地色に戻そうと大学3年から今日まで、ずっと髪を染めずに生きてきた。

自由という幻想が覚めるとき

18歳の彼・彼女らを見ていると、もう私は髪を染めることへの欲求を持てないのだと、少し寂しく懐かしい気持ちになる。

欲求を持てない理由は簡単だ。もういつでも染めることができるから。

23歳になった今、校則のように生活を縛りつけるものはほとんどない。法律や社会的なルールはもちろん存在するけれど、それは他人と暮らす上で最低限の存在で、そのルールがあるから私の自由が犯されることはない。

ただ今振り返ると、学校内のルールは少なからずそれが適用される人の自由を縛り付けていた気もする。私はどちらかというと、その期間の自由を諦めていたし、破ってまで実現したい欲求も特になかった。だから校則を犯して指導を受ける周りを見て、高校生だからできないことがあるなんて理不尽だなと思うくらいだったけど、今振り返るとあの頃は確かに自由ではなかった。

だからその反動の訪れが初めて髪を染める18歳の春と考えると、なんとも趣深い。それは、学校という小さな社会のルールから解き放たれる瞬間の幸せの象徴でもある。

でももしかしたら、その自由の効力はあまり長続きしないのかもしれない。あくまでも反動から生まれる自由は相対的なものだとしたら、欲求を縛り、対立するものがなくなれば、自由は消滅するのではないか。

とするならば、18歳の春に見る自由は幻想だ。賞味期限のある自由だ。

やりたいことがやれる。行きたいところに行ける。食べたいものが食べられる。それまでにできなかったことができるようになった状態を自由と錯覚しているだけ

これは、とても残酷だ。掴み取ったはずの自由がいつか思いもよらず手をすり抜けていくことを意味する。

だからといって、絶対的な自由がいつどこに行けば手にできるか考える方が、よっぽど訳がわからなくなる。これは恐らく、今知っている自由よりもっとこわいやつだろう。長い年月と多くの辛さを含んだ、人を呑み込んでしまうような。

ただ、これが冒頭で書いた自由の先にある”何か”かどうかは、分からない。分からないけれどなんとなく、これから生きる先には18歳の春とは違う自由が待っている気がする。

その”何か”を見つけたくて、今日も黒髪とともに生きていく。

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