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コミュニケーションの極意

なかなか生意気なタイトルを付けてしまった。
筆者はいわゆる陽キャでもなければ生粋のコミュ強というわけでもなく、心理学を学んでいるわけでもなく、〇〇コンサルタントという肩書を持つ人のように自身の発言で他人を変えられるような力があるわけでもない。
むしろ、幼少期はコミュニケーションがかなり下手だったと思うし、対人関係については苦手意識が強かったし、今でも根っこは陰キャのようなところがある。

そんな筆者なのだが、アラサーの年になってようやく、「人間関係をそれなりに穏やかで円滑に保ち、ぼちぼち周りの人に好印象を与える」というようなことができるようになった。
それは純粋に「技術を身につけた」ということでもあり、「考え方を変えてみた」ということでもあり、「自我を取り繕うことができるようになった」ということでもある。

今回は、コミュニケーション下手でおおよそ人間不信だった筆者が、どのようにして「なんとなく感じのいい人」という評価を受けられるようになったのか、その過程について書き記してみたい。
先にも述べた通り、その道の専門家というわけでは全くないので、参考程度に、暇つぶし程度に、一意見として読んでいただけるとありがたい。

では、本題に入る。

◆コミュニケーションが苦手だった頃の私

高校生くらいまで、私はとにかく人と関わることが苦手だった。
少数の友達はいたのだが、その友達のことも心から信用したりはしなかったし、学内や学外で恋人だとかバイト仲間だとかそういう関係性の人ができることもなかった。
病院の受診や試験の面接のように、他人とのコミュニケーションが必須のイベントに対してかなりの苦痛を感じていたし、誰かと関わり合うことが本当に苦手だった。

何故私がそんなふうにコミュニケーションを苦手としていたのか、その理由はざっくりとまとめると下記の2つであったように思う。

・円滑なコミュニケーションをとる自信がない
・良好なコミュニケーション以外はとるべきではないと思っている

当時の自意識としては、こんな感じだ。
「大体みんな頭が悪いし、話したって私のことはわかってもらえないし、みんな私のこと嫌いだし、馬鹿にされるくらいなら黙ってた方がいいし、そもそもそんな相手に一生懸命頭を使って気を遣って喋るの、面倒くさいし」
まあ、可愛げのないバカ餓鬼である。

人見知り、恥ずかしがり屋という評価を受けたこともあるが、実際のところはそれとは少し違うような気もする。
ただ自意識が過剰で、自分のみっともないところを誰かに見られるのがものすごく嫌いだっただけなのだ。
本当は話したいことがいっぱいあって、目立ちたがり屋な性分だったと思う。

どうせわかってもらえない、だったら徒労は嫌だ。
わかってもらえないのは周りの態度や理解力のせいだ、と思いながらも、自分の思考が「普通」ではなかったり自分に説明能力が足りなかったりすることが露呈するのが嫌で、そういうことが起こり得るシチュエーションを極力避けたかった。

そしてそれは、裏を返せば、「自分に説明能力があり、いわゆる普通とされている物事について理解力がある他人にそれを説明する場合は、必ずコミュニケーションは成立する」と信じているということであった。

◆コミュニケーションにおける挫折

上記のような形で他人と関わらざるを得ない場面をなるべく避けていた私であったが、高校生の頃、コミュニケーションにおいて人生初の挫折を味わうこととなった。

すなわち、「教師という一般的には理解力があるとされる、普通の社会人であるところの大人に、ただ起こったこと、ただの事実について、伝わるように何度も言葉や態度や方法を変えて説明しても、何も伝わらなかった」という経験をしたのである。

当時の私には衝撃であった。
コミュニケーションが苦手だと自認していた私にとっては、それは相当な頑張りであった。心を砕き言葉を尽くした数か月間、それは、私がその教師に対してそれなりに好意を抱いているということのみがモチベーションであった。
でも、駄目だった。
自信がないながら、好意的に、一生懸命何度も伝えようとして、何度も話し合って、それでも一切の理解を得ることができなかったのだ。

そして私はようやく気付いたのだ。
あ、この人は「他人」だ、と。

「私の説明能力」も「相手の理解力」も「私にとっての事実」も、それは全て、私の尺度で測ったものでしかないということに気が付いたのだ。
私の「言葉を尽くして」は相手にとってそうではないし、相手が思う「人の話を聞くための理解力」は私の求めているものと決して一致はしないし、私が見ている「事実」は、相手にとってはまた異なる「事実」かもしれない。
そのことに、挫折して初めて、ようやく気付いたのだ。

つまり、私の理想としているコミュニケーションは、「普通であれば成立するはず」と私が思っていたコミュニケーションは、実は「成立しないのが当然」だったのだ。

話す姿勢、聞く姿勢、価値観、言葉に対する感度、想像力、コミュニケーションに重きを置いているかどうかなど、それらの全てが、私と他人とでは尺度が異なる。
私と他人は別の人間なので、「同じ温度感で話す」ということ自体がそもそも、土台無理な話なんだということを私はその時知った。

◆その後の私

その教師に対しては、正直今でも「あいつ絶対おかしかったよな・・・」「なんであんなにもコミュニケーションが成立しないんだよ」と思っているのだが、冷静に周りを見ていると、そういうふうなケースは身近にたくさんあることに気付いた。

私は普通のつもりだし、相手も多分普通のつもりで、なのにどうやったって、どんなに話し合ったって絶対に「分かり合えない」。
本当に話が通じないのだ。宇宙人なんじゃないかと思うくらいに。
自分が絶対に正しいと思っている大学教師、気に入らないとキーキー騒いで暴力を振るう母、一人では何にもできないくせに偉そうな上司、もはや何を言っているのかわからない激ヤバクレーマー。
コミュニケーションは成立しないし、誰かとわかり合ったりなんてできない。それが普通で、それが当然なのだと、大学生になる頃にようやく悟った。
エスパーでもあるまいし。他人の心の中も頭の中も覗けない。私も、相手も、誰もかれも。

そうして私は、考え方が少し変わった。

・円滑なコミュニケーションをとる自信なんてなくていい
・良好なコミュニケーションなんて基本存在しないので気にしなくていい

そういうふうに思うようになった。
すなわち、自分の言ったことを誰かが理解してくれなかったり、誰かが言ってる意味が全然わからなかったり、そのことで人間関係が悪くなったり誰かに責められたりしても、それは別に「普通」のことなのだ。
良好なコミュニケーションがとれないことはよくあることだし、それで憤慨するような人もたくさんいるし、それでいい。人生ではそんなふうなコミュニケーションが大半を占めているから、別に気にしなくていいのだと思うようになった。
それはつまり、「わかってもらえるかもしれない」「わかってあげられるかもしれない」という期待を捨てたということだ。

そして、自分自身の振る舞いも、それに準じたものになった。
誰かに私を理解してもらえたらラッキーだけど、基本無理。
だから、わかり合えなくてもとりあえずお互いを不快にしないというマナーだけ守っていればいいし、それができない人間とはそもそもコミュニケーションをとろうとしなくていい。ただ受け流していればいい。できれば距離をとる。
そうやって他人と接するようになった。

相手がどんな意見を持っていて、たとえそれが倫理を犯していたり法律から逸脱しているようなものでも、自分が一切理解も共感もできなくても、「ふうん、あなたはそう思うんだね」と尊重さえしていればいい。
同意も否定もいらないし、自分の意見を伝える必要もない。
そこに愛想を加えるなら、「そういう考えた方もあるんですね、初めて知りました!」「そういう視点もあるんですね、視野が広がりました!」みたいなことを言ってにこにこしていればよいのだ。

基本的には相手の話を否定せずににこにこ聞いているだけで、「なんとなく感じがいい人」「コミュニケーションが上手い大人な人」と周りに思わせることができると思う。
意見を求められた場合や自分から話さないといけないような場面では、思うことをしっかり話してよいが、あくまで冷静に、「一意見ですが」というスタンスを崩さないでいる。
感情的にまくし立てたり、誰かを否定するような意見を言ったりせずに、淡々と話していれば基本的に誰かに不快感を与えることは少ない。

もしそれでも一方的に「自分の意見はそうじゃない!」とお気持ちをぶつけてきたり、あるいは理解も共感も尊重も絶対にしてやらないという意思を相手から感じたりした場合は、「ああ、はいはい」と思って、その場ではひたすら同意してあげて、そのまま離れていけばよい。
仕事関係の相手のように離れることができない相手の場合は、必要最低限の話しかしないようにして、それ以外の話題ではにこにこしながら「ああ~」「ええ、ええ」「そうですねえ」などとbotのように繰り返していればいいのだ。

一方で、もし、「分かり合えたりなんてしない」この世界で、もしも分かり合えそうな人に出会った場合は。
それが友人でも、恋人でも、上司でも部下でもなんでもいいのだが、そういうときにこそ、心と言葉を尽くして自分の気持ちを伝え、誠心誠意相手の気持ちを聞き取る。
宇宙人だらけのこんな場所で、言葉が通じる相手に出会えた!と喜びを溢れさせて、一生懸命コミュニケーションを取りに行くのだ。
そういうときのために、そういう人たちのために、私の言葉はある。
それはとても幸運で、幸福なことだ。

少し長くなってしまったが、これらが私の思う、コミュニケーションの極意だ。
分かり合えないことを大前提に、決して否定はせずに、あらゆる人とその意見を尊重する。自分の意見や感情とは、一切関係なく。
あとはにこにこしていれば、それだけで一般的なコミュニケーションは成立しているとされる。

また、この方法をとっていれば、「初対面の人と話すのが苦手」というようなこともほとんどなくなる。
初対面なんて特に、お互い何も知らなくて当然で、理解しあったりできなくて当然だ。何も気負うことなく、「なるほどあなたはそうなんですね」というスタイルでいればいい。

ちなみに今回書いたのは、あくまで「社会人として求められる一般的なコミュニケーション能力について」だ。
モテたいだとか、人並外れた人望を得たいとかいう場合は、これらのことに加えて、更に気を付けること、しなければいけないことが現れる。
ざっくりというと、「相手に興味を持つこと」「相手に質問を投げかけること」のようなものなのだけれど。

まあ、それに関しては、私は全然得意ではないので。
他人への興味がそもそも全然ないしな・・・。
他人のことは、「同じ水族館の違う水槽にいる違う種類の魚」だと思っているので、私は私の水槽でエラ呼吸しよう、といったふうにしか思えない。
そう考えると陽キャ、リア充、コミュ強みたいな人たちは、他人との間にある壁をすうっと自然に超えてくるから、すごいよなあと思うよ。

ではでは、今回はこのへんで。



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