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母親というフィクションへの憎しみについて

初めに言っておくが、これは実在する私の母親、つまり存在する一個人についての話ではない。
ある種の呪いについての話である。

親ガチャという言葉すらやや古くなりつつある令和五年、SNSで話題になる漫画やエッセイには、いわゆる"毒親"を題材にしたものが多くなってきたように感じる。
育児放棄、精神的支配、物理的暴力、性的暴力、金銭的搾取、宗教、洗脳、etc…
"毒親"にも様々なタイプがあるようだが、フィクションにおいてこれらを当てはめられ"毒親"とされるのは、大抵の場合母親ではないだろうか。
物理的暴力や性的暴力のような、誰の目にもはっきりとわかる暴力は、父親から与えられるものとして描かれることが多い。しかしそれは、親子という関係性でなくても成り立つ一般的な暴力、そして犯罪である。
一方で、人によって感じ方が異なるような、親子にまつわる精神的支配についてはその支配者は母親であることがほとんどであるように思う。

母親という、呪い。

何故フィクションにおける精神的支配者が母親であるかというと、やはりそれはノンフィクションに根差しているように感じる。
子を胎の内に所有している母。それだけでも自分は母親のモノ、子供は自分のモノ、と感じるには十分であり、生まれ出たそれを所持しようと破棄しようと所有者の自由のように思える。
当然、生まれたての赤子には自身の生計を立てることは不可能であり、おそらく自我もないことから、ある種の母親にとってそれはまさに"モノ"なのではないだろうか。
仮にそれに対して、たまごっちと同じかそれう以上の愛着を感じて破棄しない選択をとったとしても、そこから少なくとも一年間はおおよそ母子は離れることはなく、物理的に子を母の体の一部のようにした保育生活が続くことが多い。
そう、ここで問題が生じる。保持しているはずの体の一部が、自分の思う通りに動かないのである。自分の右手も左手も右足も左足も思い通りに動くのに、子には自分の意志の一切が反映されないのである。
泣くな、騒ぐな、ぐずるな、叫ぶな、勝手に動くな。多くの母親は、我が子に対してこれらのことを少なくとも一回は思うはずである。
だが、思ったとて、その通りに動くはずもなく。何故なら、自分で生計が立てられず、自我もなく、自分が保育している自分の所有物であるそれは、自分ではないからである。

これを読んだ多くの母親は思うであろう。自分は我が子を思い通りに操ろうだなんて思っていない。
危険な行為を叱り、見守り、将来我が子が生活するのに困らないだけの知恵と常識を授けようとしているだけだ。
支配ではなく養育だ。教育だ。
それは実際にそうであろう。
子が四六時中、肌身離さず引っ付いていなければならない年齢を過ぎてからは尚更、公共の場で大声で騒いではいけません、道端を全力疾走してはいけません、食事中は座ってご飯を食べましょう、生き物を叩いてはいけません、等々、指導しなければならないことは山のようにあるだろう。
それは支配やコントロールなどではないのだ。決して。
ではそれは、一体いつまでの話だろう?

叱り、見守るというのは本来、子が自分の身を自分で守れるようになり、自分の頭で正しく物事を考えられるようになるまでの期間限定で生じるタスクではないだろうか。
いや、それとも、親が死ぬまで、あるいは子が死ぬまで、"親としての責務"は一生続くものなのだろうか。
子が成人し、30歳を過ぎ、40歳を過ぎ、50歳を過ぎたとしても。親は子が間違ったことをしたら叱り、子が正しい道を選ぶのを見守り続けるものなのだろうか。
だとしたら、その正しさの基準は、生涯親の手の中にあり続けるのだろうか。

さて、ここまでは親の目線として考えてきたが、次は子の目線として考えていこうと思う。
どちらかといえばここからが本題だ。
何故なら、私には子はいないが親はいるからである。
解像度を上げていこう。

子にとって、親は神である。
子の世界では親の言うことは正しく真実であり、親が笑えば世界は存続し、親が怒れば世界は崩壊してしまう。
親は神であり、世界であり、常識であり、自然の全てである。
少なくとも、小学生のうち、もしくは小学校低学年のうちはそんなふうに思って生きているのではないだろうか。あるいは、家庭によっては、中学生、高校生までそういった世界のありさまは続くかもしれない。

親がいくら、「親の言うことが全てじゃない」「世界はもっと広い」と子に言い聞かせても、これはきっと変わらない。
「支配しようとなんてしていない」「親の考えを押し付けようとなんてしていない」といくら主張したって、何の弁明にもなりはしない。
親が存在する子にとっては、親はこの世の全てなのだ。

何故そうなるのかと言うと、子にとっては親、ひいては『家族』が自分にとって一番の居場所であり、唯一の安心できるコミュニティであるからだ。
簡単に言うと、それ以外の選択肢を持たず、視野が狭いからだ。
ある種の刷り込みでもあるが、最初に教えられ、それが当然だという空気で育ち、それができなければ叱られ、疑うこともなく実行してきたことは、子にとって間違いなく『常識』であり『正しいこと』になる。

そして、その『最初に教える人』こそが、『母親』なのである。

つまり、それが教育であろうと養育であろうと、正しさの基準は母親が子に植え付けるものなのである。
支配や管理の意図がなかったとしても、子の世界の土台を作るのは、間違いなく母親なのだ。
やがて成長した子がその『正しさ』に疑問を持つ日が来るとしても、それは随分後になってからのことだ。大人になって、自身の教育や養育に取り返しがつかない段階になってからようやく気付くことができるのだ。
あれは常識などではなかった、と。
そして、それが常識などではなく、親と言う一個人から出た意見の一つである、と気付くことができたとしても、染み付いた習慣や価値観はなかなか抜けはしないし、仮に自身の意見がそれとは異なっていたとしても、反論するにはあまりに遅すぎるのだ。
もし無理やり反論したとしても、当然親としては受け入れられるはずもない。
だって、産むよりもずっと前からその習慣や価値観で生きてきて、そのまま子にそれを植え付け、今でもそれに倣って生きてきているのだから。そうしてお前を育ててやったのに、何故、今更?
親に向かって常識を説こうなど、笑止千万ではないか!

……長々と書いてきたが、私はこれを、『呪い』と呼ぶ。
善意もしくは悪意の有無はもはや問題ではない。
母親という存在、どうしようもなく絶対的な存在。自身から抜くことのできない、血の一滴一滴に、細胞の一つ一つに、母親の教えは含まれている。含まれて、流れて、巡っている。私の全身を。絶えることなく。

ここまで読んでくれた気の長い読者の諸君ならもちろんおわかりだと思う。
例えば、母親が、誰からも尊敬される真面目で立派な人格者だったら?
例えば、母親が、善悪の区別もつかない薄情で頭のおかしな人間だったら?

もちろん、子が独自に『おかしい』ケースもある。
現代社会では、親以外のコンテンツからあらゆる情報を摂取できるようになってきているし、先天的に他人と決定的に違う価値観を持って生まれてくる子が、いないとは言わない。
けれども、親が、母親が子に与える影響は、あまりにも、あまりにも大きすぎるのだ。

そして、おかしな母親から生まれてきた子は、自身の常識や価値観の異常だけに悩まされるのではない。
学校で授業参観がある度に、受験で親の同意が必要な度に、職場で親の話が出る度に、恋人と結婚したいと思う度に、親に病気になる度に、
干渉するのだ。親の存在が。死ぬまでずっと。自分の人生に。
じゃあもう、親ガチャ失敗した時点でダメじゃん。
起死回生の一手もない、リセマラする他どうしようもない。
なんとか生き延びたとして、それ、自分の子にも受け継がれるのかな?
私は自分の母親と同じことを、自分の子にするのかな?
ああ、詰みじゃん。人生。

と、いうわけなのである。
憎むほか、どうしろというのだろうか。
生かしてくれただけで感謝をしろと?
それこそ、笑止千万、なのである。

感謝と憎しみは、全然同居するよ。
ありがとう、一生許さないよ。

そういう、呪いの話。


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