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保身と沈黙

「沈黙は金」という言葉がある。
似たような意味合いの言葉で、「口は禍の元」「言うは知性言わぬは品性」というようなものもある。

これらの言葉が意味するところは、文字通り、「あんまりべらべら喋るんじゃないよ」ということだ。
自分の言葉でその場の状況や相手の心情を好転させることができる、というのは自惚れであるし、言葉が凶器の一面も持つ以上、むやみやたらには振るわない方がいい。
余計な、不用意なことを言ってしまうくらいなら何も言わずに黙りこくっていた方が百万倍ましだし、それは時には優しさと呼ばれ、またある時には処世術であると言われる。

私はこの考え方に概ね同意である。
言葉は恐ろしい。

どんな言葉を選ぶのか、というのはもちろん重要な点であるし、例え同じ言葉を用いていても、受け取り手の環境や知性や心の余裕によっては、真逆の影響を与えてしまう可能性もある。
そして仮に、相手の環境や知性や心の余裕に合わせて、完璧なシチュエーションとタイミングで、過不足のない言葉を投げかけることができたとしても。
それが、良い結果をもたらすとは限らないのだ。時と場合によっては。

だから、己の傲慢で言葉を重ねるべきではない。
一度口から出た言葉は、口に戻してなかったことにはできないのだから。

と、思う一方で。

「この沈黙はただの保身なのでは?」と感じることがあるのも、事実だ。
品性や、優しさなどからくるものはなく、自分の身を守るために、ただの臆病で口を噤んでいるだけではないのか?と。

例えば。
仕事でいいアイディアが思い浮かんだけれど、もしかしたら的外れな意見かもしれないし、馬鹿にされたりしたら嫌だから黙っていよう。
悲しんでいる人に慰めの言葉をかけてあげたいけど、変に干渉して、こちらにまで被害が及んだら嫌だから黙っていよう。
困っている人がいるから声をかけて助けてあげたいけど、みんな見てみぬふりしてるし、浮かないように自分も関わらないようにしよう。
そんなふうなときだ。

保身というのは、一種の処世術であると思う。
例えば、大声を出して暴れている大男がいたとしたら、自分の身を守るためにその人から離れるのは賢明な判断だろう。
ただ、この保身というのが、「恥をかきたくない」という気持ちからくるものだったら、どうだろうか?

変なことを言って、嗤われるのが嫌だ。
浮いてしまって、後ろ指をさされてしまうのが怖い。

そういった理由のみで口を噤むのは、私は、勿体ないと思ってしまう。
沈黙は金だ。口は禍の元だ。
けれど、言わないと伝わらないのも、事実だ。

これは、私が20代から30代へと足を踏み入れるときに思ったことなのだが、歳を取ることの利点の一つに、「恥をかくことに対しての恐怖心が薄れること」があると思っている。
頭の中にあるイメージは、いわゆる大阪のオバチャンのようなものだ。
困っている人がいれば、それが全く知らない相手でも「あんたどないしたん!」と声をかけることができるし、仮に自身の無知や不備をさらけ出すことになったとしても、「え?これってこないしたほうがエエやろ?違うん?イヤーッ私知らんかったわ!」とズケズケ意見することができる。

もちろん、匙加減というものはある。
ただの恥知らずになってしまうのは全くもって不本意である。
それでも。

「恥をかきたくないから永遠に黙っていよう」よりは、ずうっと意味があると思ってしまうのだ。
わからないことは素直に「私わかりません!教えてください!」って言えばいいし、わからないなりに相手に寄り添いたいときは、「ごめんねよくわからない、でも私はあなたの幸福を本当に心の底から願っているのよ、私にできることがあったら何でも言って」と言っていいと思うのだ。
それは、触らぬ神に祟りなし、と縮こまって黙り込んでいるよりは、よっぽど豊かな在り方なのではないだろうか。

これは、なりたい私についての話だ。
20代の頃の私は、どちらかというと、黙ったまま密かに周りの様子を窺っては、色んなことに気が付いたような気になって「ああ、その言い方は。。こう言った方がいいのにな。。」なんてことを心の中で他人に思いながら、それでも結局自分は黙ったままだった。
だって、下手に関わると絶対に面倒ごとになるし、黙っていれば「冷静で賢くて大人っぽい人」と見てくれる人がほとんどだった。
それは、私にとっての処世術だった。

けれど、30代になって、これからの私は。
もう少し、思っていることを口にしてもいいのではないかと思っている。
もちろん、冒頭で述べた通り、「言わぬ品性」を大切にするスタンスは変わらない。言葉は恐ろしい。言わなくていいことは、言わないままでいい。
でも、「恥をかきたくないから」黙るのは、もうやめたい。

身も蓋もないことを言うと、「黙っている私」も「言いたいことを言う私」も、結局のところエゴでしかないと思う。
誰かのためだなんて主張することの9割9分は嘘で、人間の行動指針のほとんどは、「自分がそうしたいから」に他ならないと思う。
だから、どちらを選ぶかは、「なりたい自分」で決めていい。
私は、どういう私になりたいのか?
どちらにせよエゴであるなら、自分が豊かであると思う道を進むのが人生なのではないかと思うのだ。

今回はそういう話でした。
「品性のある良い子ちゃん」も素敵だけれど、「ガンガン喋って動く元気人間」も悪くはないよね。っていう。
みなさんは、どういう自分になりたいですか。

ではでは、今回はこのへんで。


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