修論が大変だ~日記①

「その研究でどんな困っている人を救えるの?」

大学院1年目の2月。一つ上の先輩が修論を提出し、同期の間では「次はいよいよ我々だな…」という空気が醸し出されている。
僕個人としてもやりたいことがまとまってきたので、1回先生に見せてみようと思い面談を行ったところ言われたセリフだ。

「誰を?そりゃあ困っている人はたくさんいると思うんですが…」
「それじゃだめだね。言いたいことが個人の基準を抜け出せてない。『いると思う』『いるはずだ』じゃなくて、困っている現場をきっちり共有してもらわないと。」
とまあ、他にもたくさんダメ出しされた。

久々にコテンパンにされて悔しさだけが残る。
先生は何にも分かってない、僕は良いことをしているはずだ!
…「はずだ」をまた使ってしまった。これがダメなんだろうなあ。
そう思いつつ、自転車を走らせていた。

それから2日間、今日の夜までずっとこのことばかり考えていた。
公務員試験の勉強とか、ほかにもいろいろやることがあったのに全然手につかない。
僕は誰を救いたいのだろうー-。

そもそも僕の研究の出発点は原体験コンプレックスからだった。
研究室の先輩や同期には、貧困地域の様子やヤングケアラーの大変さを当事者に近い形で経験している。そういう人たちの研究は救いたい人のイメージが明確にある。もちろん大変な経験をしたことは幸せなことばかりではなかったろうし、苦労もしたことだろう。
しかし、自分の中には何も見つからない。幸運なことに23歳になるまで五体不満足で立派に育ててもらった。だったら、「何も見つからない」の当事者として、そのことの問題点を突き止めてやろう。そんな思いで研究に取り組んでいる。

「何も見つからない」のは何も気づいていないだけかもしれない。
人間はちょっとした一言で傷ついたり、救われたりする。
誰もが人を傷つけ、誰もが傷つけられているのがこの時代である。
みな平等に傷ついている。ならば、せめてこれ以上傷つかないようにしてあげればよいだろう。

とはいえ、研究なのだからどこかに問題を設定しなくてはならない。
この2日間ひたすら考えたが答えは出なかった。誰もを救いたいのかもしれないし、誰も救いたくないのかもしれない。
それだけ難しいことを考えているのだと自分を褒めてやらないと中々筆は進まない。
そんなことを考えつつ、今日も論文を読む毎日である。

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