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イムゲー(芋酒)について〜起源と歴史〜

ハイタイ!発酵エンジニアのYurinoです。

今日は今流行りのイムゲーについてお話しします。

イムゲーとは、一世紀ぶりに復活した「泡盛でも焼酎でもない芋を原料としたお酒」として最近ではメディアでも多くみられるようになってきましたね!(QABで11月10日、11日、12日、14日で特番が放送されています)

今日はそのイムゲーについて、田中愛穂先生の「琉球泡盛に就いて」から『芋酒』の章を私なりに噛み砕いて私の言葉でお伝えします。
そして私があえて『イムゲー』と書かず、『芋酒』とするのは田中先生の文ではそのように記されていることと、イムゲー以外に『ンムザキ』とも呼ばれていること。そして今のイムゲーは商品名として使っているところもあるのでこのnote では芋酒とさせていただきます。


もし本文が読みたい方は図書館などで先生の本を探してみてくださいね!旧漢字、言葉遣いも前のものなのでかなり難解でしたが先生のイラストもあったりして超面白いですよ〜!

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まずは、いつ頃この甘藷を原料とした蒸留酒(本では火酒と記載)が作り始められたのかは定かではないそうです。

しかし、古くから一般農民のアルコール飲料として広く飲まれていたことは古書に散見する文字や老人からのお話により確かであり、また甘藷が伝わって以降に製造され始めたのも間違い無いでしょう。

⭐︎甘藷は1605年(慶長10年)野国総官によって沖縄に持ち込まれ、その後儀間真常によって植え付けられていったのできっとそのあとのことですね。

この芋酒の製造方法については、中国や鹿児島から伝わった製造方法を用いたのか、あるいは泡盛の醸造方法を用いたのかについてもわからないそうです。

ただ、芋という安価な原料(みんなが手に入れることができる)であることや製造方法が簡便で泡盛のような蒸留酒の風味も味わえるということで、瞬く間に一般庶民の間に広まりました。

泡盛が上流階級のお酒としたら、芋酒は一般人のお酒ということです。

しかしこんな話もあります。

琉球政府の役人奉行は相当の高位高官にある身乍ら、米焼酎たる泡盛を常用せず、芋酒は泡盛よりも美味なるとして、之を用ひてきた。当時の人は之を又珍しいものにして居た。故に彼等奉行連は絶えず、良質なる芋酒をさがし求めていた。而して、某なる村に芋酒の逸品醸造されんと聞けば、直ちにその村の長をして、その逸品を上納するよう命じて飲用するを習慣としてきた。しかも、この上納命令を受けたる当人は勿論村全体も○を○上の光栄と心得も誇ったと言う。芋酒が、その実質に於いて如何にいかに上下に愛せられたかが分ん。

つまり・・・そういうことです^^;

泡盛よりも好きっていう人も多くいたってことですね。

一般庶民の間では冠婚葬祭に合わせて芋酒が振舞われ、またみんな自家醸造していたの蒸留器も各家庭にあったようですよ。

田中先生の本の中で面白かったのがこちら。

当時の婦人の芋酒製造技能の巧拙は、今日の中流以上の婦人に於ける、音曲、文芸趣味の様に、世人から非常に注目せられたもので、嫁を迎へんとする時の如き、先ず第一に質す言葉に「彼女は酒及び味噌を巧みに製造し得るや」であった。当時の農民間に在りて、女が女として価値付けられ、又は軽視せらるるのは、皆、芋酒製造の技術の巧拙如可であったのである。

昔の女性は芋酒が上手に造れるとモテていたんですね。笑

やはり頻繁に飲む日常のお酒でしたから、美味しいのが作れる奥さんの方がいいですよね!

しかし個人的に思うのは、この時代は「お酒を作るのは女性、飲むのは男性」のようですがいつ頃から女性がお酒を飲んでも違和感がなくなったのか気になります。

家に出来上がった芋酒を貯蔵しておく際も、出来によって1番酒、2番酒、3番酒と3段階に区別し、振る舞う際にその相手の身分や間柄、親戚かどうかなどに合わせて変えていたようです。

こうして多くの人に愛された芋酒ですが、明治41年1月に酒税法の適用によって自由醸造ができなくなり、家庭にあった蒸留器も全て没収させられました。泣

こうして「芋酒」は消えていったのでした・・・。

                 つづく・・・

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