【読書記録】古事記講義

三浦佑之/著 文芸春秋 2003初版

第1回:神話はなぜ語られるか
 神話とは、人が今ここに生きている理由を語るものですが、古事記では人間の起源が語られていないというのが通説だそうです。しかし筆者は、実は古事記も人の起源に言及していると主張します。
 世界は最初、もやもやとした「クラゲナスタダヨヘル」状態でした。そこに最初に「成りませる」のがウマシアシカビヒコヂの神。「カビ」とは萌え出る芽のことを指し、また「成りませる」とは、誰かが作ったのではなく、自然にできたということを示してます。混沌の中に最初に生まれたのは、草だったのです。
 以上を踏まえてイザナギ・イザナミの話を読んでみると、イザナギのことを「青人草」と表す箇所が気になります。またニニギの神は、永遠を象徴するイワナガビメではなく、移ろいを象徴するコノハナサクヤビメを嫁に選びます。人間の起源は草であり、有限を選択した、だから短命であることは当然なのだという、人間の起源、生命の有限性の裏付けが描かれているです。

第2回:英雄叙事詩は存在したか/第3回:英雄たちの物語
 古事記の源流には、語りによる伝承が存在していたという立場から、古事記の中の英雄物語を紐解きます。
 古事記の英雄たちを見ていくと、中央の権力にはどこかそぐわない部分が出てくる上、そういった部分は日本書紀になると影をひそめる傾向があります。例えば、ヤマトタケルは兄を殺したために父から疎まれ、地方討伐という名目で追放されますが、日本書紀には父との不仲の描写は見られません。また、ヤマトタケルには対等な立場である友人をだまし討ちにするといった、凄絶な人間性も付与されています。しかもその部分は、わざわざ後から物語の筋に取り込まれた形跡すらあるのです。これは、「語り」の持つ性質のためだと筆者は述べています。語りにおいては、話し手と聞き手の相互の影響が累積し、物語は発展していきます。またその物語の語られる場は、王権の内側のみとは限りません。外側にいた語り部・聞き手によって伝承された要素が取り込まれたために、王権から逸脱した英雄が誕生し、しかもその英雄に寄り添う形での語りが発達したのです。

第4回:出雲神話と出雲世界
 出雲神話は、主にオオナムジを主人公とする英雄物語で、古事記の4分の1を占める一方、日本書紀では語られていません。また、なくても天皇家の歴史としては特に不足しない内容です。
 これは、古事記と日本書紀の扱う時代による差だと考えられます。古事記は7世紀初頭の、律令国家が確立する前までを描きます。その場合、出雲は大和の強大な対立者として立ちはだかりますが、8世紀の律令国家の正史として描かれた日本書紀では、出雲は単なる一地方でしかないのです。
 出雲神話の内容に目を向けて見ると、大和に支配される前の出雲が、独自の外部(=朝鮮半島)を持つ、独立した存在であったことがうかがえます。例えば「国引き」の伝承(日本海の島を曳いてきて手に入れる)は、平定すべき外部の存在を示唆しますし、ヤマタノヲロチには、わざわざ「コシ(=高麗)の」という説明が入っています。しかし、大和朝廷にとって、そういった外部は存在しないに等しかったのです。

最終回:古事記の古層性
 古事記は、天武天皇の命で書かれたという序文をもちながら、日本書紀とは異なり、大和朝廷の正史にはなりえない性質を持っています。筆者は、序文だけ後から追加されたのではないかと見ています。
 文字は世界をひとつに統合しようとしますが、語りは多様な世界を抱え込み、中央集権の枠に収まらない人物や、出雲神話のような独自の世界観が堆積していきます。古事記の底流には、大和朝廷の支配から外れたところで語られていたものが存在するのです。

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 原文で読んだにもかかわらず古事記というと、天皇が編纂させた、天皇家の起源神話のアレね、くらいの認識しかなかったのですが、それが覆りました。天皇家の正史である日本書紀とは異なり、権力から外れた人々の物語も内包する世界を持っていたからこそ、普遍的な面白さが備わり、長く読み継がれてきたのだと思います。
 また、なぜ権力から外れた世界が紛れ込んだかというと、語りの力によるものであるという点も興味深く思われました。文字で書かれたものは論理が重視され、それに添わない内容は切り捨てられる傾向がありますが、語りでは聞き手にとって面白い部分が取捨選択、蓄積されていくというのです。古事記は、現代の日本にはない、語りの文化の名残を見せてくれるものでもあるのだと感じました。