「他人を知ることは、自分を知ること」の本当の意味

30歳も一年が経過して、ようやくタイトルの通り陳腐な表現の本当の意味が腑に落ちたような気がしたので備忘録的な。テキナパラダイス。

アルコールを嗜むようになって、ずっとずっとやってきたのが、他人との本音の意見交換(のつもり)。それで、28,29歳までは、自分の考えと相手の考えが違うポイントについてしつこく、ひたすら、深堀りしていたわけなんだけど(意識がまともなうちね)、

私はこう思うんだけど、

あなたはなぜ?なぜ?なぜ?ーーーーーーー
みたいな感じで一方的に深堀りしてたんだけど、

ちょうど直近1年くらいで、

「あぁ、この人はこういう考え方の人なんだな」

「こういうことに重きをおいてるからこの場合はそういう風に考えるのね」

とかってことを、なんていうか素直に受け入れられるようになったんですよ!

「今更?やばくない?」と思ったそこのアナタ。同意。御意。

いや、頭ではなんとなくわかってたのかもしれないけど、ようやくそれが腑に落ちたというかさ、なんていうかあれよ、マニュアルのクラッチ操作みたいな。

でさ、なんでそれが素直に受け入れられるようになったかというと、きっと自分と他人はそもそも違う人間だってことを体感として受け入れられるようになったからだと思うんだよね。

んで、それはどういうことかというと、ちょっとだけ前より自分のことを客観的に理解でき始めたってことなんだよね。

そんでタイトルのことなんだけど、少なくとも自分は自分のことを客観的に理解するってことを、他人を理解するってプロセスを経ずにはたどり着けなかったなって思うんですよ、

なぜかというと、他人との相対的な立ち位置でしか社会の中で自分がどういう人間かを説明する術が見当たらないから、なんだよね。

例えば、自分がこの30年くらいで理解できたことは、所属とか愛の欲求よりも、自由への欲求みたいな類の感情のほうが強いってこと、のくせして競争心が強くて承認欲求が強いみたいな、そんな感じ。

でさ、こういうのって、例えば○○への欲求が強いみたいなことすら、いやそれ誰と比べて?みたいになるんだよね。
自分一人の中で、Aという感情とBという感情とCという感情の強さを比べたところで、それって自己完結しちゃうから、自分のAと他人のA'、自分のBと他人のB'、自分のCと他人のC'を比較したときに、あぁ、私は人よりもAの値が高いんだなぁ、なるほど。
他人さんと比べて自分ってもしかしてAの傾向が強い人間なんだ。ふーん。初めて知ったなぁってさ。なるのだよ。ね。(押し付けがましい)

それが他人を知ることが自分を知ることってことの本意だよねって思ったって話。きっと人間は他者との関係性の中で自分を説明する生き物なんだろうね〜。

まあそんなかんじ。私はずっと自分を探してたのかもしれない。わら

どろん!

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