【ファンタジー】響かずの音ひとつ(3071文字)

私が音をなくしてから四日が経った。
いずれは取り返せるとわかっていても、
当然のことながら音が恋しい。

魔女のベニバナとは留守中に
庭の出入りを許されているほどの仲で、
今回はそれが災いしたのだ。
ベニバナは先月半ばから「長期出張中」で、
来月半ばまで帰ってこない予定だった。
私はその日、足りなくなった薬草を摘むため、
彼女の庭へ出向いていた。

私の仕事は薬剤師。
ベニバナは魔女の中でも薬草の扱いに長けるいわゆる薬草魔女。
子供の頃から薬学に興味を持ち、
足繁くベニバナの元に通っていた私は
去年都の薬学院を出、この町に戻ってきて、
ベニバナとの距離をさらに縮めていた。
それが先に述べた庭の出入り自由につながっている。

ベニバナの庭はこの世の季節通りに植物が育つ表の庭と、
普通の人間には入ることのできない、
季節を無視して常に植物が旬を迎えている裏の庭の
二つで構成されているが、
私は午後の来客の予定に焦り、
裏の庭に入る手順を間違えてしまった。
このところ仕事が忙しく、
薬草が足りなくなってしまったこと自体が
異例という状況だった、
という苦しい言い訳を許してほしい。
裏の庭に入るための鍵は七つ。
私はよく似た三つめと五つめの鍵を間違えて差し込んだ。
順番通りに差し込まなかった場合に起こること。
それは呪いの発動である。

そして私は音を失った。

私は慌ててベニバナの家のドアを叩き、
応じてくれた弟子のフタアイに状況を説明した。
自分の声は聞こえるので発声には困らないのだが、
周りの音は一切聞こえない。
フタアイはすぐに紙とペンを持ってきてくれ、
そこに書いてくれたことには
彼はまだ裏の庭の呪いの解呪ができないという。
状況をベニバナに伝えてくれるというので、
くれぐれも無理はしてくれるなと伝えてくれるよう念を押し、
頭を抱えながら馴染みの家をあとにしたのだった。

帰りがけ、午後に薬局を訪れる予定だった女性の家を訪ねて
突然難聴状態になったと筆談で伝えた。
呪いのことを正直に言うのは何かと面倒を招くと思われたので、
そういうことにしたのだ。
午後の予定というのは今後の投薬についての面談だったのだが、
筆談を快く了承してくれたため、なんとかこなすことができた。
夕方、彼女が聞こえぬドアチャイムを鳴らして出て行くと、
どっと疲れが襲ってきた。
聞こえていたものがまるで聞こえないというのは
また喋る方もままならないというふりをするのは
これまでに覚えのないストレスを私に与え続けている。
だが、町にもうひとつある薬局は明日が定休日だ。
この状況でも明日はどうしても
こちらの薬局は開けねばならない。
まだ仕事モードを手放していないうちに
貼り紙を作っておくべきだと、
私は自分自身を奮い立たせた。

『店主は急病にて難聴状態になっております。
大変お手数ですが、お話は筆談にてお願い致します。
ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。』

『 本日、早じまいとさせていただきます。
重ね重ね申し訳ございません。』

レタリングが得意でよかった。
機械的にそしてスピーディーに二枚の貼り紙を作り上げ、
ドアのガラス面に内側から一枚目を貼り、
外に回ってその下に二枚目を貼り付けた。
夕陽を受けるドアに鍵をかけ、二階に上がる。
高齢で跡継ぎのいなかった前の店主から
半ば譲り受けたような形のこの薬局の二階には
居住スペースがあり、
実家は近いが私はここでひとりで暮らしている。
すぐに話は伝わるだろうが、
わざわざ言いに行くこともないだろう。

その日は早々に軽い夕食を済ませ、ベッドに潜り込んだ。
未知のストレスにさらされたこと、
それを和らげるために飲んだ薬草魔女の秘薬、
両方のせいだろう。
私はあっという間に眠りに落ち、
音が聞こえないこと以外はいつも通りの朝を迎えた。
朝型人間で本当によかった。
目覚まし時計の音で起きる暮らしをしていたら、
それこそ誰かに起こしてもらわなければならなかっただろう。

次の日からは慣れない筆談での接客が始まったが、
ちょっとした人々の唇の動きを探っているうちに、
なんとなく言っていることの察しがつくようになってきた。
もちろん、私との会話は筆談でとみんな思っているから、
私とのやりとりの中で口を動かすことは少なかったが、
知り合い同士のやりとりを含め、彼らが何か話す時、
私はできる限りそれを注意深く見た。
そして、一週間が過ぎた頃、私の世界に音が現れた。

戻ってきたとは言わない。
相変わらず周囲の音は実質全く聞こえていないからだ。
けれど私が帰っていく常連客の背を追い、
ドアが開けられるのを見た時、
ドアの動きに伴って必ず鳴るドアチャイムの音が「した」。
それを皮切りに私の世界には音が増えていった。
二週間が経つ頃には私が声を知らない新規客が話す時を除いて、
私の目に入る範囲にあるであろう音は
ほとんど頭の中で再生されるようになり、
私はうっかり喋っては、
治ったのかと問われたりするようになっていた。

呪いを受けた次の日にフタアイが訪ねてきてくれて、
ベニバナはなるべく急いで帰ろうとしてはいるものの、
せいぜい予定が一週間早まるかどうかだと伝えてくれていた。
だから、あと一週間は「音のない」世界にいなくてはならない
ということ。

夕食に鶏肉をソテーしていても、
そこにあるであろう音は私には感じられている。
時計の針とにらめっこしつつではあったが、
失敗なく焼き上がって八時。
約束の時間。階下に降りる。
貼り紙越しの人影を確認して鍵を開けた。

『大丈夫?』
メモを見せながら口も動かしてくれたのだが、聞こえなかった。
一言だったからかもしれない、
とその時は思って二階へと上がることにした。
訪ねてきたのは少し離れた、
ここより大きな町で薬剤師をしているヤクモ。
薬学院の同期生。そして私の恋人だ。

ヤクモはしばらく仕事で忙しいと言っていたから、
会うことになっていたのは元々今日で、
その予定が繰り上がることもなかった。
その間、魔女の庭の呪いで
自分の声以外の音が聞こえなくなったことや
徐々に音が頭の中で再生されるようになったことについては
手紙で伝えていた。
食事はあえてなるべく黙ってした。
ちょっとした時に声をかけて唇を追ってみたけれど
やはり彼の声は聞こえない。
目を向ければ時計の音も聞こえる。
片付ける食器の音も、捻った蛇口から流れる水の音も、
目に入るものが立てる音は全部聞こえてくる。
けれど、ヤクモの声だけは聞こえなかったのだ。
紅茶を淹れてテーブルに戻る。
ヤクモには知らない音以外は
ほとんど聞こえるようになったところまでは話していなかった。
言わずに過ごすこともできたかもしれない。
けれど、近年いちばん心に染み渡らせてきたはずの声が、
簡単に思い返すことはできるのに再生されない声が恋しくて
私の堰は切れた。
泣き出した私をヤクモはすぐに抱きしめ、頭を撫でる。
ヤクモの声だけ聞こえないの、と、
途切れ途切れに訴える私の髪の上で、耳元で、首筋近くで、
ヤクモは何事か呟きながら、私の頭や背中を撫で、
時には優しく唇を押し当てた。
彼は私が泣き止むまでそれを続けて、
それでも最後まで彼の声は聞こえなかった。

それから三日後、
ベニバナが早めた予定をさらに早めて戻ってきてくれた。
聞こえない期間が長かったため、
いきなり呪いを解くと音の濁流で苦痛が起こるかもしれない
ということで、
一週間ほどかけて徐々に解けるように調整してくれた。
本物の音が聞こえ始めると、私の糸は切れてしまったのか、
頭の中での再生は起こらなくなってしまった。


そうして少しずつ世界に音が増え、
私が本物の音を全て取り戻して数日。
時計の針とにらめっこしつつ料理をし、八時を迎えた。
約束の時間。階下に降りる。
ドアのガラス越し、姿を確認して鍵を開けた。

「キッカ、僕の声聞こえる?」
確かに、確かに聞こえた。
私は思わず彼に抱きついていた。
「ヤクモ、ちゃんと聞こえる。聞こえるよ」
「そっか、よかった」
私を抱きとめてよしよしと頭を撫でる。
ひとしきり彼の細身の体を抱きしめていたが、ふと力を緩める。
「こんなところでごめんね。二階に行こう」
そっと離れて踵を返すが、すぐに振り返って続けた。

「今日はたくさん、たくさん声聞かせてね」

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