【日常・カフェ】「アイス越しにね」と彼は言っていた。(1101文字)


マスターは夏にアイスを作り始めてからアイス作りにハマり、
シーズンを終えてもアイスを作り続けていた。
ただハマったからと言って、商売をしている以上は
お金にならないものを作り続けるわけにはいかない。
アイス作りにハマったマスターのアイスにハマったのは
たぶん私だけではないのだ。


その日も私はマスターお手製のアイスを注文していた。
彼は今日はケニア「キウニュファクトリー」の
フレンチローストを。
私たちは運ばれてきたそれらを口にしながら、
先程偶然に見かけて入った写真展の話をしていた。
スマホのカメラで撮った作品に限定した写真展だったが、
私たちは大いに楽しんで会場を後にしていた。
今時のスマホの性能は侮れない。

暖かい店の中で食べる冷たいアイスクリームというのは、
どうしてこうもきりりと縦に幸せを走らせるのだろうか。
私はダブルにしてもらっていたアイスのうちの一つを
ほぼ食べ終えていた。
アイスがスプーンを冷たく冷やしていたから、
それが消えたあとの私の口内で氷点下の存在証明が続く。
私はそっと口の中からスプーンを抜き取って器に置いた。

ふと会話が途切れる。彼は手元のスマホを操作していた。

「もうすっかり紅葉の季節なんだねぇ……」
私は窓の外に見える赤に目をやる。
その鋭い赤は、幾重にも重なり、私の視界を柔らかく占める。
「それにしても」
私がぼんやりとその1枚絵を眺めていると、突然空気が震える。
「ナオ、よくアイス2個なんて頼めるよなぁ。
俺は冷え性だから無理」
「私は健康なので余裕です」
「食うのも早いし…あ、そうだ」
彼はテーブルの上で操作していたスマホを取り上げる。
「そのアイス、持ち上げてよ」
「へ? なんで」
「写真撮りたい。アイス越しにね」
ああ、さっきの写真展に触発されたわけね。
私は笑ってアイスの器を顔の高さに掲げる。
「そのままにしてて」
彼のスマホはアイスの器から窓の向こうを透かし見る。
デフォルトのカメラしか持たないそのスマホは、
偽物のシャッター音を鳴らして1枚を切り取った。
「見せてよ」
ん、と差し出されたスマホの画面には、
黄みがかかった白と鮮やかな赤と少しくすんだ水色が
収まっていた。



あれから2年ほどが経つ。
あのカフェは移転のために閉店してしまい、
今はあの場所にはない。
私は移転後も通っているが、
寒くなっても窓の外には赤い色はない。

私たちはカフェがまだあの場所にあるうちに別れてしまった。
世の中が桜の開花に浮き足立つ頃。
花が散るようにと言うにはひと足早かった。

私の心の中にはギャラリーがある。
簡素に貼り付けられた写真たちの中に、
白と赤と水色でできた1枚。
あの日彼の撮った写真はピンで留められてそこにある。
アイス越しにね、と言う彼の声も一緒に留められていて、
私は時々それを再生しながら見る。

流れる時間の中で変わらないのは
マスターのお手製のアイスだけ。
私はアイスで冷えた口の中に、
ブラジル「プラナウト農園」のフレンチローストを流し込む。

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