なるほど読書メモ「さよなら未来」

「紙に円を書いて、その円の中が、「ヒトが知っていること」だとします。そのとき「ヒトが知らないこと」って、どこにあると思いますか?」

「円の外側の余白の全部ですかね」

「ちがうんですよ。「知らないこと」は円に隣接した外側の部分にしかないんです。それ以外の余白は「知らないことすら知らないこと」なんです。」


お茶なら自分で淹れればいいものを、僕らが生きてる社会はその「淹れる」というちょっとした手間すらも市場化し、ペットボトル入りの商品に変えてしまう。「手間いらずで便利でしょ」というのは、本来は企業側の倫理でしかないのにもかかわらず「なんでも買える」は「便利な社会」で、それが「高度に発達した社会のありよう」なのだ、とぼくらは迂闊にも薄ぼんやりとそう思い込んで、そうこうしてる間に「自立・自存」の手立てを失っているのだ。


「便利」は便利な言葉で、それを持ち出されると、うっかり有難がってしまったりする。それに乗じて「不便なことが便利になること」をもって「課題解決」としがちな製品は後を絶たないが、海外のサービスや製品が「便利」を謳うことは、実は稀だ。ただし「効率化」の話は頻出する、本来「efficiency」や「economical」といった言葉には「ダブついてるものをシュッとさせる」というニュアンスがあって、ここでいう「分散」とも案外相性がいい。なんならefficiencyは新しいLuxuryだとする価値観すら生まれつつあるくらいだが、「便利」にはもはや何のイメージも感覚も宿らない。「便利になる」ってぶっちゃけ何が価値なんだろうか。


僕は日本における「音楽」の大きな問題は、「そもそも音楽ってなんで必要なんだっけ」「ってかほんとに必要なんだっけ」「必要とするならどうしてなんだっけ」ってことが、社会全体としてよくわからなくなっていることにあるような気がしている。だからこそ音楽とは関係のないバックストーリーがないと安心して音楽と向き合えない事態が起きているように思えてならず、耳が聴こえない人が作った音楽だから、あるいはガンを克服した人の音楽だからという理由で聴いてみよう、もしくはそうであるから感動したというような人が相当数いるということは、おそらく「音楽」に何を求めるのかという点において多くの人が相当数いるということに違いなく、その自信の無さにつけこんで、抜け目のない「産業」は、「音楽」を「感動」の名の下うまいことパッケージして売りつけているというのが、まあ、最も穿った目で見た現状なのだろうと思う。


音楽が人に、何をどれだけもたらしてくれるのかを定量化することは難しい。それを自治体や国、もしくは社会といったレベルで定量化しようと思えばなおさらで、産業化され、お金となって還流してくることでしかその価値を明示することができないというのなら、それはそうかもしれない。けれど、音楽と豊かさの相関は、個々人のレベルにおいてはそんなに難しい話でもないはずで、宮古島の女性は「おばあさんの唄」が自分の暮らしの不可欠な実質であることは言われなくとも感じているだろうし、「音楽で食えなくなって、音楽作っていられれば幸せですよ」とtofubeatsさんは断言している。

音楽を、無理に経済に従属させなきゃいけない理由なんて、実際のところ、どこにもない。



写真は多かれ少なかれ「覗き」だ。そして、その同期と目的によって、社会的に許容されるものとそうでないものとに恣意的に振り分けられる。一人のプチ変態のエロティックな「覗き」と、理由が明かされることのない何らかの目的に従って撮影された組織的な「覗き」と、果たしてどっちが薄気味悪いだろう。いずれにせよ君悪さは、その写真を撮る行為そのもではなく、それを「何のために使うのか」に宿る。写真の使い道は、実際いくらでもある。性的欲求を満たすため、国家公安のため…しかし、それを決めるのは撮られた側ではない。撮った側だ。だからこそ写真は常に監視であり、侵犯であり、暴力なのだ。リカードは言う。

「私たちの誰もが、侵略し、徴用し、支配することができる。それを蓄積し、操作し、ふるいにかけ、取り込み、吐き出すことができるのだ。」


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