なるほど読書メモ2「さよなら未来」

結局のところ、音楽でいうならば、デバイスやサービスの進化は、音楽の進化とは関係がないのだ。それは商品化し換金するシステムが変わっても、アーティストがやるべきことは変わらない。聴いたことのない、フレッシュな音楽を作ること、ピリオド、換金システムが変わることによって、パッケージの仕方が変わっていったとしても、少なくとも僕がケイナーンやジャネール・モネイに感動するのは、換金システムの精度やパッケージの工夫によってではない。

ぼくらは、そこでサッカーしている人間を見ているのであって、3Dテレビを見ている訳ではないし、職場を自分の足で歩き回ったルポライターの息遣いを読むのであって、iPadを読む訳ではない。3Dテレビで観ようが、iPadで読もうが、退屈なサッカーの試合は退屈だし、凡庸な雑誌記事は凡庸なままだ。映画にせよ、音楽にせよ同じことだ。

それにしてもこんな基本的な了解事項を、いまさら確認しなきゃいけないなんて、僕らはいったいどれだけそそっかしいのだろう。なにをそんなに焦っているのだろう。


「死者とされた生者とその他の章」と題された最新プロジェクトにおいて彼女は「家族=血族」をテーマに据える。18個んお様々な「血族」を世界中から選び出し、その全体像を「家族全員のポートレート」「テキスト」、そして家族の物語にまつわる「脚注画像/映像」で構成し、浮き彫りにする。

なぜ「家族」か。「他者が恣意的にキュレートすることが不可能な対象」だからだと彼女は言う。家族という単位には明確な秩序があると彼女は語る。親子、兄弟、孫と祖父母といった家族内の関係性は確かに不可変で、明確に秩序化ができる。しかも誰かがそれを取り替えることはできない。しかし、家族の構成人数や形態はどれとして同じということはない。それは環境、文化的/社会的状況の圧力によって千差万別する。

彼女はそうした圧力を「運命」と言い換えるが、その不可変の運命によって家族というものの中には無秩序が持ち込まれることとなるというのが彼女の見立てだが、かくして家族は、秩序と無秩序がダイナミックに交錯する、一つの「場」として立ち上がってくることとなる。


「科学に善悪はない。ただし、人はそれを善にも悪にもすることができる。だから科学には愛がなくてはいけない。」

ある科学テクノロジーが「害悪」へと転じたとき、およそ二つの論調が声高に喧伝されるのをぼくらは嫌というほど見てきた。その科学自体を全否定するか、ひたすらその恩恵を肯定して開き直るか、しかし極端な結論に飛びつく前に、今からでも遅くはない、僕らは「科学に善悪はない」ことを肝に銘じつつ、それを扱う人たちのうちに果たして「愛」はあったのだろうかと、改めて問い直してもいいかもしれない。


アーカイブというものは、説明や分類ができないものがあるからこそ存在する。アーカイブ化された情報と情報の隙間に、おそらく何かが語られている。

そうした視点から、説明や分類を拒む「何か」を収集して写真に収め、とりあえずアーカイブ化して並べてみる。一つ一つのモノは無関係だ。だが、それらの間には何かえも言われぬ因果が読み取れそうな気配はしなくもない。

サイモンの言葉を逆から読めば、あらゆる情報が闇雲にアーカイブ化される世界は、あらゆる情報が説明や分類のできないものとなっていく世界だ、ということでもあろう。20世紀の世界には、それを支える大きな枠組みとして例えば国家、宗教、科学といったものが存在した。枠組化することで、「枠組み」では語れない世界を露わにしていく。

東日本大震災の際に養老孟司が、「答えはすべて目の前にある。私たちが知らないのは問いのほうだ」といった。震災を前に「問い」を失ったように、僕らはサイモンの作品を前に問いを失う。答えは、それ、として極めて具体的に、そこ、にあるもかかわらずぼくらはそれを理解するのに正しい問いを見出せない。答えを探すことよりも、それはおそらく遥かに苦しい状況だろう。そして21世紀という時代が抱える問題には、常にこの苦しさがまとわりついている。

写真と俳句

ある技術なりが輸入される時、それを成立せしめいていたコンテクストごとまるっとセットで輸入されることはまず起きない。土壌ごと移植することは困難、というかおよそ不可能だからだ。結果土壌が変わることで持ち込まれたものの育ち方も当然変わる。これは何も具体的な技術や製品に限った話ではなく、新たな「概念」や「ことば」が持ち込まれたときにこそ顕著に起きる。

歴史的に見ると「写真」は「絵画」というジャンルに接続され、そこから独自の文化を開花させたということになっている。そんなのあたりまえだろと思われるかもしれないが、日本においては実はそれは当たり前ではなかったはずだ。そもそも写真という新たな形式をそこに接続できるような絵画の伝統を日本はもっていなかったように思うのだがちがうだろうか。

では、日本人は写真を何に接続したのかというと実は「俳句」なんじゃないかという気がしている。とりわけアマチュア写真という文脈においてそれは顕著ではないか。

なんだって季節や自然というものをやたら写したがるのか。そしてそこにちょっとした心象をこめてみたりするのか。巧みに切り取った一瞬の中に密やかに自分の思いを滲ませる。その作法は独自に日本人的であり、とりわけ俳句的ではないか。あるいは、年配の愛好家が連れ立って尾瀬あたりに出向き撮った写真を皆で講評し合う文化がはたしてどこから来るのか。僕はここにも俳句の影響を見たくなる。

こうした写真をめぐる様式はスマホで撮影してFacebookにアップするというルーチンが一般化したことで一層強化されている。一句読んで「友達」同士で「いいね!」などを講評する。講評される前提で撮られシェアされる写真は、自己表現のようでいようでいてそうではない。様式化されたコミュニケーションである以上、そこには文法や作法があり無闇に自己表現をすればいいわけではない。Instagramなどを見てればそれが極めて限定性の高い「定型詩」の世界であることは立ち所にわかるはずだ。

こうなると話はもはや日本に限らない。世界的な現象だ。西洋人ならば「表現の民主化」などと、この様相を喜ぶのかもしれないが日本においては茶や花や句や歌といった文化表現は、江戸時代には既にある種民主化されておりそれを踏まえれば「表現のシェア」なんていうものも日本人には案外馴染み深い話なのかもしれない。→『柔らかい個人主義の誕生』(山崎正和)

「俳句は滑稽なり、俳句は挨拶なり、俳句は即興なり」と、昭和の文芸評論家の山本健吉は行ったそうな。

本当の「働く」が始まる

「雇用雇用って政府は言うけれど大体いつから「雇用」がそんなに大問題になったわけ?雇用が大事といいながら一方でアメリカでは価格の下落を防ぐために余剰の穀物を捨てたり余ってる家を取り壊しているんだよ。これが何を意味を表しているかわかる?食料も家も余っていて、それを生み出す人手も十分に足りていると言うことだよ。これ以上生産性をあげる必要性なんかないわけ」

僕らが働くのは、この産業社会を成り立たせるためであって、自分たちが生きていくためではない。消費を通じて経済を成り立たせるために僕らは働いている。「もうお腹いっぱいなのにもっと食え、もっと食えと政府は言うわけだ。それで内需が拡大すれば雇用も増えもっと食えるようになる。それって倒錯でしょ。雇用雇用というけれど、それがいったい誰のための「雇用」なのかよく考えたほうがいいね。」

「好きなことをビジネスにできているのだから羨ましいと思う人もいるかもしれませんが、「好き」だけでは人は働き続けられないものです。「好き」はキャンディのようなもので栄養にはなりません。「働く」ということを続けていくためには栄養が必要です。僕にとってのそれは「誰かの役に立っている」と言うことなんです。」

ダグラス・ラシュコフはこうも語っていた。「「働く」っていうのは誰かに頼まれてやるもんじゃないよ。そこには自分なりのミッションてものがある。ことばの最も健康な意味でも「アントレプレナー精神」っていうものはそう言うもんだし、それがある人は雇用がなくても働くんだよ。ここにきて、メイカームーブメントのように誰もが自分でものを作れる時代になったのは喜ばしいことだし、期待もしている。ポスト雇用時代の「働く」が始まったんだよ。」

雇用が終わり、働くが始まる。これからの「働く」は、自分が生み出した価値によって価値づけされていく。

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