なるほど読書メモ3「さよなら未来」

お金は「いいね!」である。その逆もまた。

お金というものは実は。「ことば」に似ているじゃないかなと思い始めた。どちらも「それが流通するから流通するのである」という不思議な根拠の上に立脚しており、成り立ちの起源もよく分からない。もしかしたら音楽というものも似たようなものかと思い、知人に「音楽ってのは商品ではなくて、実は通貨なんだよ」と吹いてみたら「たしかにそうだ!」と大きな賛同を得ることができた。

本当ならゴミになっているようなものが、市にもちこまれ物好きの目に止まるとそれが「価値」をもったりする。そのとき「価値」というものが発生する瞬間に立ち会っているような不思議な気持ちになる。

骨董屋というのは奇妙な商売で、ゴミのようなものでも平気で値段をつけて売る。「え、こんなモンがこんな値段すんの?」と驚くことは少なくない。原価はあるようでなく、その価値の根拠といえば煎じ詰めれば「おれがそういう値付けをしたからだ」ということになる。どこぞの子供が殴り書きした絵に「適正価格」は存在しない。というより、そのものを介してなんらかの交感が成立した瞬間に「価値」が立ち上がり、「価値」が発生するというのがおそらくの順序だろう。

そのやりとりはきっと「会話」に似ている。会話は発生する人と受け取る人の間で何らかの交感/交換が成立して初めて価値となる。そこでの通貨は言葉だが、問題はその通貨には定量化できる単位はないということだ。そこで、はたと「いいね!」に思い至る。

確かに「いいね!」は、一人当たりに「1いいね!」しか割り当てがない。けれどもしたくさん「いいね!」を集めた人が集めた分だけそれを自由に使えたりしたら「いいね!」はそのまま「通貨」になるかもしれない。ペイメントがデジタル化し、その実体がどんどん失われてく様相は、そう考えると「お金のいいね!化」なんじゃないかと思えてくる。

交換したくなるからお金が生まれるのか、お金があるから交換が生まれるのか。鶏が先か卵が先かというような話だけど、なんにせよ人間は何かと「交換」したがる生き物だ。そしてデジタルネットワークは、そのチャンスをおそらく無限に広げてゆく。「交換」が成立しちゃえば、「通貨」は何でもありうるというのが、これから先に広がっている未来のようでそのとき「お金」は「国が発行する通貨」とはまったく違ったものを意味しているはずだ。

「exchange」(交換)という語をラテン語に翻訳してみたら「commutatione」という語が出てきた。その語をもう一度英語に翻訳してみたら「price」(価格)だった。これはいったい何を意味するのか。


言葉に囚われて

「概念」というものは、近代科学ではうまく説明できないものなんです。例えば「野球」って概念がありますよね。それを構成している要素に細かく分解していくとするじゃないですか。「スタジアム」とか「バッド」とか、、延々と羅列していって「野球」という概念を作り上げている構成要素をすべて洗い出し、それで「野球」という概念を定義できたとします。

で今度は、「バット」という概念で同じことをしてみたとします。するとここでおかしなことが起きます。というのも、その構成要素のひとつとして「野球」ってものが入ってきちゃうんです。

「バット」は「野球」という概念内においてはそれよりも小さな一構成単位なのに、その「野球」が一方では同時に「バット」という概念の構成単位となってしまうわけです。

ここに「概念」というものの不思議があって、この相互入れ子状態とでもいうべきものを、三次元の物理空間において記述しようとすると非常に厄介なことになってしまうわけです。

おそらく、ここで語られる「概念」という語は、そのまま「ことば」というものに置き換えても同じ問題を引き起こすはずです。

「ことば」というものには、それを形成している無数の「意味」のコンテクストが内包されていて、じゃあそのコンテクストをすべて洗い出せばある「ことば」を定義できるのかというとそうはいかないんですね。

そのコンテクストを定義するためにはそのことば自体が必要になるということもあって、そう考えるとことばの体系というのは、巨大なメビウスの輪のようなもので、それは実に精妙なというか危うい均衡の上に成り立っているに違いないのです。

こんなことも言えます。文章というものはそれを構成する語によって組み上がっているわけですが、それぞれの語の「意味」は文章のコンテクストに従って決定されるものの、そのコンテクストを決定するためにはそれぞれの語が定義されなくてはならないという矛盾を来します。つまり、文とそれを構成している語というのは互いが互いを定義し合う関係にあってしかも、どっちが先に定義されるものでもなく、それが同時に行われて初めて「文章」という均衡が生まれるのではないかと、そんな気がします。

ことばというものは、よくよく科学的思考を裏切る振る舞いをするものです。「ことば」は絶えず変化する、総体のつかめない、謎めいた生命体のようでちょっと怖いほどです。文法の策定をはじめとする、ことばを科学的にわりきってそこに法則性を見出そうとする営為が、どうしたって後付けの理屈にならざるをえないのも、むべなることかなとも思います。

ことばはツールだとよく言われます。ヒトがことばというものを使うのだ、と。けれど事はむしろ逆でことばというものにヒトは使われているのかもしれません。ことばとはなにか、ということを一生懸命考えるときにわたしたちがことばを使ってそれをやっている以上、私たちは囚われの身にすぎないのではないか。


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