「ここにしかいない」かつ「どこにもいない」かつ「どこにでもいる」女の子のこと

よく、アイドルなどで「どこにもいない女の子」という枕詞が売り出し文句として与えられることがあるが、よく考えるとこれはどこかおかしい。なぜならば、当該の女の子は現にそこにいるわけだから。「どこにもいない女の子」と言うためには、そもそも特定のどこかに存在している誰かではいけないはずである。

これに対して、魔法少女に選出される女の子はたいてい、「どこにでもいる女の子」なのが興味深い。これも実は矛盾している。うっかり使い魔を召喚してしまい、ひょんなことから魔法少女に任命された時点で「どこにでもいる女の子」は同時に「ここにしかいない唯一無二の女の子」、「(他の)どこにもいない女の子」でもあるからだ。

ところが、「どこにもいない女の子」はあくまでも「どこにでもいる女の子」である。地味でふつうで、これといった特徴もなく、クラスの中でも目立たない。しかし、だからこそ選ばれてしまったことの宿命性が確たるものとなり、魔法少女になるべくしてなった唯一性(どこにもいなさ)が際立つ。

初代プリキュアのEDでは「チョコパフェとか イケメンとか マジに夢中になれる年頃なの …今日も告白したかったよ…」という歌詞がある(合間の「…」は私の思い入れ余韻である)。そういう、ふつうのティーンエイジャーのそれなりな日常と、プリキュアであることが地続きなのがいい。彼女らには数年後、プリキュアと受験を両立しなければならない局面に直面するくらい、凡庸であってほしいものである。

これがはなから「どこにもいない女の子」、わかりやすい例でいえば容姿端麗で成績優秀、実家はどこぞのお嬢様で云々…という高嶺の花だったとしたら、(そういうキャラとしてのポジションは獲得するだろうけど)唯一無二の主人公にはなれない。せいぜい与えられるのは青とか緑とか紫あたりの周辺カラーであろう。
そもそも、「どこにもいない女の子」というとき、本当に言いたいのはそういうことではないのは、皆言わずともわかっている。


結論からいうと、「どこにでもいる女の子」と「どこにもいない女の子」は同じことを言っているのだと思う。

では、なぜ目の前の「彼女」をして平凡で無個性な「どこにでもいる女の子」というと、むしろ唯一無二の「どこにもいない女の子」性が賦活され、対して「どこにもいない女の子」の得難さを強調すると「どこにでもいる女の子」に格下げされてしまうのか。言い換えれば、なぜ「遍在性」を強調すると唯一無二であるという意味での「不在性」が引き出され、稀という意味での「不在性」を強調すると「遍在性」に転落してしまうのか。


「彼女」=「どこにでもいる女の子」=「どこにもいない女の子」は、入不二基義さん『現実性の問題』の「円環モデル」でいうと、時計の6時、可能性から潜在性に切り替わる「転回点」に位置すると思う。円環をどちら向きに進むかで、両者に亀裂が入り、意味上の違いが生じる。

はじめに、「どこにもいない女の子」を考える。

通常、ポジティブな意味で「どこにもいない女の子」という表現が用いられる場合、それは「キャラクター」「容姿」「人となり」「雰囲気」などの言表可能な属性が、他に類を見ないほど抜群に優れているという意味であろう。これは、円環モデルでいうと、反実仮想の領域で無数に出現する「可能な彼女(ライバル)」をこちらの優位性によって、一つ一つ否定しているような状況だと思う。次々現れる「匹敵しうる彼女」に対して、それでもこちらの方が上位であることを誇示していき、「どこにもいない女の子」という理念を維持するのである。ある意味でそれは、可能性の否定を繰り返すことでなんとか自身(現実)の肯定性を保つ修羅のようなありかたといえる。

しかし、同時にそのような意味での「どこにもいない女の子」は、理念がいつ破られてしまうかわからない(何らかの属性で自分を上回る女の子が出現するかもしれない)ことに戦々恐々とする、ギリギリな綱渡りの状態でもある。
有無を言わせぬ圧倒的な希少性、いわゆるカリスマ性で他を凌駕することができれば「どこにもいない女の子」はそのままの意味をゴリ押しして成立するのかもしれない。しかし、純粋に素材だけで勝負するのは限界がある。

では、そこで限界を限界づけているのは何だろうか。それは、「身体性」つまり老いて病んで朽ちる「物理的な延長があること」ではなかろうか。

「どこにもいない女の子」の肩書をほしいままにする彼女は、ルックスの魅力はいうまでもなく、人格者で、人望も厚い。キャラも立っていて、それでいて協調性もある。なんでもそつなくこなすし、こなしたものも完璧で、非の打ち所がない。何をしても誰よりも抜きん出ている。

しかしそれは、あくまで彼女の稀さや、特殊さを列挙することにとどまり、「生身の身体を持って実在すること」、「現にこのようにある」を超えることはできない
「どこにもいない」という「類稀さ」を示す形容が、物理的な不在を意味する「どこにもいない」にうまいこと転化し、純粋な理念=概念と化すことはないのである。概念になりたくてもなりきれず、どこまでも可能性の領域で語られてしまう。そのため、「どこにもいない女の子」はその地位を保持するために、絶えず否定/肯定の土俵で競わなければならない。

そこで、「どこにもいない女の子」の「身体性」が意識されることは、要は幻滅である。このとき、身体の重みは「このように」という局在性と緊密に結びつく枷のように働く「現に」の桎梏によって、飛べないのである。
「どこにもいない女の子」であるに足る、彼女の希少性をいくら枚挙したところで、「そんなこと言ったって、現にここにいるよね」というツッコミ(マジレス)は回避できない。その瞬間、「どこにもいない女の子」は「どこにでもいる女の子」(可能性の領域で語りきれる女の子)のひとりでしかなくなってしまう。円環モデルでいうと、可能性の段階からいかんともしがたい、ちっぽけな「現実」に引き戻される(何らかの力によって、突然首根っこを掴まれ、スタート地点にぐいと戻されるイメージ)。この場合の「どこにもいない女の子」は円環モデルの前半で足踏みをし続けるような状態だと思う。


これに対して、「どこにでもいる女の子」はどうか。
「どこにでもいる女の子」は、前提からして「どこにもいない女の子」とは異なる。まず、「どこにでもいる女の子」は、凡庸さという遍在性(局所性を差異づける特徴がないこと)にスポットがあたっている。円環モデルでいうと「どこにでもいる女の子」は「あらゆる反実仮想を出し尽くして手札が切れつつある状態」に当たると思う。「Aさん、Bさん、Cさん、Dさん…」と代替可能彼女の反実仮想を広げるだけ広げたのはいいが、「………で、?」みたいな。
目の前の「彼女」は無限の可能な他の彼女と置き換えられる。本質的に別の誰でも構わない。「このように」あろうとなかろうと、いてもいなくても同じことである。それくらい普通であるということで、「どこにでもいる女の子」という表現は、「このように」あることの優位性を徹底的に否定する。留意すべきは、「どこにもいない女の子」から始まった場合、反実仮想によって出現する「無限の他の彼女」は「潰すべきライバル」であったが、「どこにでもいる女の子」はみずから可能性の一つに埋もれにいくということだ。

ところが、ここで矛盾に突き当たる。彼女の「身体」の実存が遍在性(本質的な「だれでもよさ」)を揺さぶりにかけるのである。
というのも、彼女をどれだけ「どこにでもいる」(それくらい無個性)と言おうと、現に目の前にいる「彼女」は「ここにしかいない」。このことを、どう説明すればいいのか。
彼女が「ここにしかいない」ことは、(唯心論を持ち出すとかは別にして)否定することができない。この時、現実の不条理を突きつける「身体性」の重みや質量は、局所性、唯一性の自覚として、一挙に開かれる開かれるとともに、世界を開くのである。「どこにもいない女の子」では「このようにある」幻滅となったのに対し、「どこにでもいる女の子」の場合、「このようにある」は、心臓をはっとつかむような、「いま・ここ」の発現になる。

その地点において、「どこにでもいる」彼女は唯一無二の女の子になる。見えなかったしぐさや表情が、内側からきらきら綻ぶように、あらわれる。「どこにでもいる女の子」は「ここにしかいない女の子」かつ「どこにもいない(かけがえのない)女の子」に(姿形はまったくそのままで!)変化するのである。それと共に、唯一無二の女の子に向かい合っている「わたし」も生じるということを、忘れてはならない。
そんな女の子は、もはや可能性の領域で語る事はできない。できないというか、使われる道具が違うから、原理的に「刃が立たない」。肯定や否定の網を掛けてどうこう言える次元にいないのである。
また、そこにきてはじめて、彼女は、純粋な概念 = 理念 = アイドルになることができると思う。純粋な概念になるためには、一旦「どこにでもいる」を踏む必要がある。

以上を円環モデルに基づいてまとめるとすれば、目の前の「彼女」を「どこにもいない女の子」と命名すると、転回点から見て右回り(可能→現実)に逆行する(後方に脱落する)形となり、結果「どこにでもいる女の子(のうちの一人)」に転落=幻滅する。他方、「どこにでもいる女の子」からスタートすると、円環モデルは左回り(可能→潜在)に向かい(前方にダイブする)「どこにでもいる女の子」はそのまま「どこにもいない」かつ「ここにしかいない」女の子 = 概念へと変貌を遂げる(図)。


そこにいるだけで、物言わずして、関わる人をおのずから狂わせる、それほどまでに魅力的な女の子ってどんなだろうか。
もし、そのような子がいるとしたら、「どこにでもいる女の子」である。間違っても、「どこにもいない(そのくらい稀な)女の子」ではない。

彼女はどこまでも無個性で平坦、自分というものがないだろう。入不二さんの言葉にすれば、「様相がなくてベタ」なのである。だからこそ、あらゆる様相をまとって、我々の思い出に侵入し、かこ-と-いまを作り変えたり、新たに作ったりする。初恋の人の姿で夢枕に立つかと思えば、母親の声でしゃべり、次の瞬間には鏡になって、私自身の顔でわらうのである。

そういう意味での「どこにでもいる女の子」とは例えば、安部公房の『密会』という作品に登場する「溶骨症の娘」のイメージである。彼女は、全身の骨が融けだして、次第に、ひとのかたちを失ってしまう。流体状のからだは、どこまでもやわらかく、やさしく、無垢で、エロティックであり、うちがわから世界と同化して、世界なのか、自分なのか、わからなくなる (わからなくさせる)。。

あるいは、大量の少女の顔画像データをモンタージュにして、平均化した顔もそうしたイメージに近い。無数に重なった輪郭の焦点がブレていて、たまたま偶然、目鼻口のパーツにピントが合った瞬間の、ただただ均整が取れているだけで、内実伴わない、空っぽの顔がよい。モデルルームや、実在しない戸籍のような。

誰でもあって誰でもないひと、女の子のことをよく考える。そんな子というのは、さながらロールシャッハ・パターンのインクの染みように、人に解釈されることで、誰かの中ではじめて「彼女」として立ち上がるので、ある。


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