ばらばらな「わたし」のまとまれなさについてー解離性障害、ベルクソン、西田、レヴィナスー

柴山雅俊さんの『解離の舞台-症状構造と治療』が面白くて一気に読んでしまった。

色々と考えることがあったので、忘れないうちに書き連ねておくことにする。


解離性障害の症候の基盤にある構造とはいかなるものか。
柴山は、「存在者としての私」「眼差しとしての私」の剥離を解離性障害の中核に位置付けている。
解離が起きているとき、主体は様々な人格や時間や空間が交差する場所、つまり文字通りの舞台となる。そこで、「眼差しとしての私」は「存在者としての私」という器を離れて定点なく漂い、ある時は舞台の上の「私」に眼差しを向ける観客に重ね合わされる。自己の中で自己が乖離する。

「存在者としての私」はこの世の中に縛り付けられてように身体を持ち、周囲の刺激に翻弄され、逃避することができない当事者としての私である。これに対して「眼差しとしての私」はこの世界・身体から離れたところに位置し、そこから自己と世界を眺めている私である。 通常この二つの「私」は統合されているが、解離性障害では分離する」(p.90)

この、「存在者としての私」「眼差しとしての私」の区別だが、これは自分になじむ表現で言い換えれば、「私」「わたし」である。私はその深度に応じて、硬度や純度が変わるのである。

表層の私である「私」は冷たくて固く、重い。特定の色形に固着すると、融通が効かない。ざらざら、ゴワゴワとしている。言葉で示されて分かったつもりになれる自己である。見て触れて感ずることができ、老いて病んで朽ちる身体である。
一方の、「わたし」軽くてやわらかい。それは、「とうめい」である。決まった形を持たず、「私」を透かして遍在しつつ局在する。平仮名で「とうめい」と書くのは宮沢賢治の『注文の多い料理店』の序文に登場する「すきとおったほんとうのたべもの」と同じ魂の位相にあるためである。「私」は「すきとおったほんとうのたべもの」を口にすることはできないけれど、「わたし」の方はそれを食すことができるし、あるいはそもそも食べるという行為を必要としないのである。

両者のイメージとしてあるのは、「私」「きびしく」て「まじめ」、平仮名の「わたし」「やさしく」て「おおらか」。また、括弧のつかない単なる私は今こうやって文章を書いている私のように中性な主語を表すときや、主体の両義性に関わらない文脈を表す場合にも用いている。私の中で、「私」と「わたし」が均衡を微妙に変化させつつ、ずれたり、くっついたりして統合されているのである。

以上のことを踏まえると、例えば「場所をなくした眼差し」「眼差しをなくした場所」という表現は、それぞれ「「私」をなくした「わたし」」「「わたし」をなくした「私」」と言い換えることができる。いずれも、真ん中にポカンと穴が空いていて、しかもその穴がメビウスの輪のようにねじれて繋がっている。前者は、周囲に溶けいってしまい自分の輪郭がない。後者は、カラッポすぎて「ほんとう」の手応えを感じることができない。中身だけで器がない(形をもてない)のと、器だけで中身がない(形しかない)ような状況である。


「わたし」「とうめい」であると言った。
「わたし」は、決まった形がないから、何にでもなれる。あらゆるものを平等に透かして映しだす。私は、そのような「わたし」にどっしりとした大丈夫感、それでいてどこまでも自在で身軽な、風通しの良さを覚える。

それはたとえば

「世をはなれ 人を忘れて我はただ 己が心の奥底にすむ」(西田幾多郎)

というときの「奥底」の、深く澄んだ水のようす、に感じ取れるかもしれない。


解離と「自分の色」については、本書の中でも気になる症例が多数あげられている。
中でも、特に惹かれたものを引用する。

症例D[女性・30代前半・解離性同一性障害]
「私自身は半透明。ちゃんと自分の輪郭があって自分の色が欲しいと思う。私が半透明なのは、透明のように何も無くなることの延長ではない。相手に合わせて色が変わる。私が半透明で、それを通して色が見える。自分の色が欲しいけど、一つになると、いろんな色になれたのにそれができなくなる。それも能力のうちだと思っているところもある。自分は存在感がなくて、何にでも溶け込んでしまう。何にでもなるし、何でもない」(p.38)


本書は、スペクトラムにある境界例の解離症状や、パーソナリティ障害との関係など、解離の周辺領域の問題も幅広く論じられていて興味深い。とりわけ、私が最も触発された(「これは」と衝撃を受けた)のは、特定の外傷体験に発症の原因を持つわけではなく、元々の発達の問題が「この世界での馴染めなさ」につながる、解離型ASDのケースである。

症例A [女性・30代・解離型ASD・解離性同一性障害]
自分はばらばらで砂時計のように分子レベルで飛散している。輪郭が点々になっている。粒子の集合体が私。落ち着く場所がない
体の部位が部屋中に飛び散る。粒子のような形で広がって、壁にもバウンドする。粒子になっているときは蛍光灯を見ていると、自分も点滅している感じになる。気持ちいい」(p.196)

自己が分子状にほどかれて、ばらばらの状態で宇宙を泳ぎ、時折魅力的な刺激に飛び込んで、心も身体もなく、同期することは「気持ちいい」のである。
多分これは、一種の「存在するとは別の仕方」なのだと思う。また、同時に「イリヤ」的なざわめきでもある。


解離の問題に、レヴィナスを対応させてみるとすれば、どうなるか。

『実存から実存者へ』で彼が実存の倦怠感を覚えるのは、「存在者としての私」に対してであるといえる。そして、彼に書くこと、語り直すこと、前言撤回させることを背後から(いくぶん憑依的に)強制するのは「眼差しとしての私」だと思う。というのも、「わたし」や「眼差しとしての私」は、青白くてうすぼんやりとした「他者」の気配を帯びている。自分の声が、頭の中で倍音になって拡がる。

「眼差しとしての私」は自分の同一性を保持したまま体外へと抜け出すこともあれば、自己意識が希薄になって抜け出た自分が誰かわからないような状態になったり、他者と重なったり、融合したりすることもある。「眼差しとしての私」が想像によってその同一性を変容させることは、交代人格の発生と大きく関係している」(p.94)

レヴィナスが、ある=イリヤの不眠、切迫した覚醒状態から眠りに落ちること(定位すること)を語る時、「ふっと紐を切ったように」「海の底にしずんで」「泥のように」「まとまる」というイメージの連鎖が生じる。それは、自らASDであるグニラ・ガーランド開発の「ハグマシーン」、および加重毛布に全身を深くきつく圧迫される安心感(「ばらばら」が「まとまる」)ことと重なる。身体を締め付けられることで、絶えずビート板のように浮き上がる実存の浮力を鎮めることができ、重力に身を任せて、自己や世界のあり方を落ち着かせることができるのである。

私は、血圧を測るときに腕を激しく圧迫されるのがなぜか好きである。腕を締め上げられると血管が特定の部分で脈打つのが分かって、私はそこに私が「いるなあ」と思ったりする。脈打つ現局した部分に確かな私を自覚することができる。それもささやかな「まとまり」(自己限定)の感覚なのである。

「彼ら(ASDの人々)は自身をひとつのまとまりを持った対象として把握することが困難であり、そもそもそういうことに馴染んでいない、自己という存在の色や形を実感することができないのである」(p.197)

解離性障害では、凄惨な体験や処理しきれない状況にあって、感情や記憶、人格の切り離しがおきる。柴山は、スプリットされた経験が貯蔵され、交代人格が生まれ来る空間を「隠蔽空間」と呼ぶ。

「さまざまな困難な状況にあって「私」は生き抜くために自己変容しつつ、他者や共同体への同調にそぐわない自己部分を切り離すことで仮の統合を成し遂げようとする」(p.123) 

隠蔽空間には、「ありとあらゆるなかったことにされたものごと」が手付かずのまま、飽和寸前の熱をたたえて揺蕩っている。
そこは限界がないという意味で、通常考えられるような時間も空間もない。隠蔽空間を私は「ほんとう」と呼んでみることにする。

ところで、この「隠蔽空間」だが、ベルクソンの「純粋持続」と見ることはできないか。
ここ最近ベルクソンと西田のことを行ったり来たりして考えていたこともあり、試しに上記の事柄を総合してベルクソンの記憶の円錐図に組み込んでみた(図1)。

図1 隠蔽空間の円錐形モデル

ちなみに、西田の用語による説明を加えたものが図2である。潜在がそのままの強度で極限の一点に収縮したのが現勢する自己であり、収縮した自己が自己の底に絶対の他を見るときに最大の弛緩が果たされる。ベルクソンの図でいうところのSが現に行動する「私」の極限にあたり、純粋持続であるABの領域に「わたし」たちが漫然と漂っている。純粋持続は、「私」に結実する未然・以前のつぶつぶ・ばらばらの流れである。

図2 図1を西田用語で説明した場合

また、これを、井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』における「創造不断」の章から「已発」「未発」の概念を通じて図式化すると、図3のようになる。ポイントは、下部分の空間がベルクソンの円錐を逆さまにして並べたものであるということ。未発の創発連鎖が、已発の流れとして、同一性を形作るのである。

図3 「未発」の連鎖が「已発」の流れを築くモデル (ベルクソン要素込)


私は以前より、レヴィナスを「まとまり」と「ばらばら」という単純な動きに崩して読んでみているが、図3のようなイメージが念頭にあるのである。レヴィナスの複雑に入り組んだタームを極めてシンプルな動きに一旦留保して、そこからビデオを逆再生するような感じで言葉を編み上げ直してみると、「こと」に「もの」が自動的に付いてくるようで面白いんじゃなかろうか。

ここで示した未発の領域は、柴山のいう「隠蔽空間」であり、「ほんとう」にあたる。そこは、「わたし」たちがゆらめく未分節の海である。分節線がいまだないため、この図の三角錐の底面は表記上一つの区切りなしの円に、きしめんのように押し拡げることができる。これを踏まえて、今度は図3を「私」の生成というより具体的かつクリティカルな事態に投じて考えてみると、図4のようなイメージが描ける。

図4 「わたし」の自己限定が「私」の同一性を形成しそこなうモデル


「存在者としての私」はこの世の中に縛り付けられたように身体を持ち、周囲の刺激に翻弄され、逃避することができない当事者としての私である、という引用を思い出してほしいが、ここで「私」は、外部環境という問に対して「わたし」を絶えず自己限定し、その都度ごとに回答するような形で現勢する。
その際、本来「ばらばら」「つぶつぶ」であるところの自己はかろうじて「まとまり」としての帯を作ろうとするのだが、瞬間的に析出される「私」の間に絶えず断絶、亀裂が生じてしまい、なめらかな主体が成立しにくいのである。この時、「私」の間を断絶させるのは何かというと、外部環境を含めた広義の「他者」であったり、自分自身のツッコミ(「わたし」が「私」に回収されることに対する「わたし」の反動)だったりする。
なお、レヴィナスにおける「全体性」と「無限」の関係も、これとどこか似ている気がする。「全体性」は(相当個人的な理解だが)ざっくりいうと、「不本意な形に無理矢理まとまらせようとしてくる力」の感じである。国語のテストの「主人公の気持ちを20字以内でまとめなさい」の枠のようなものが、「わたし」を内から外から制限する。いうまでもなく、20字以内でまとめられた内容よりも、そこからあぶれたものに豊かさがあるのであって、20字以内でまとめられた内容は、まとめられなかったものごと(隠蔽空間)をそこから看取しうるという点に深みがあるのである。


やや脱線するが、女の子同士の雑談、いわゆるガールズトークというのは「私」への迅速かつ適切な収縮が求められる、極めて高度なコミュニケーションである。
そこには、決まった収縮のパターンはなく、その都度たくさんのコンテクストを汲み取りながら収縮の仕方を変化させなければならない。「こうまとめれば、とりあえずよい」という明確なルールがない。ないというか、その場その場で変動する。変動的といっても、ジャズのフリーセッションのような気ままな自由さはもちろんなく、暗黙のルール、「アウトな収縮」が誰も何も言わずとも確実にある、というのが難しい。
それはまるで、「収縮の千本ノック」というか、ドッヂボールで内野に残ったのが自分だけになって、狭い枠の中で降りかかるボールを必死で避けるような感じである。ベルクソンの三角錐で言うと、先端が四方八方に放射する(図5)。会話に加わるのを諦めて、ガールズトークで聞き役に回る(そういう収縮の形に徹する)のはもちろん一つの方法だが、積極的な収縮を回避しているということでもある。

図5 収縮の千本ノックのモデル


一方それに対して、男性間のコミュニケーションは、問いに対して明確な答えを与える、結論に向けて議論するなど、収縮の形がある程度パターンとして共有されている。そのため、その都度収縮を調整する負担が少なくて済む。とりあえず表面上パターンに従えばよいため、「わたし」を弛緩させたまま「私」だけそれらしく収縮させるという省エネなあしらいも可能であろう。もちろん、ガールズトークのようなフィールドで話す男性もすごく多いため、上記は単に性差で括れる話ではない。

さらに、このようなことを考えていると、ASD圏の発達障害において、自分の「ルール」や決まった「パターン」にこだわるのは、その都度の収縮のブレを低減し、着地点を恒常的に保つことで、自己同一性を確保する意図があるのではないかと思えてくる。Sの軌道(已発の流れ)にあらかじめレールを敷いて、収縮のタイミング、形、方向を事前に定めておくのである。例えば、「水曜日はこの服を着る」「12時になったらお腹が減っていなくても食事をする」「この店に行ったらこれを頼む」など。

なお、西田は、歴史とは「永遠の今の自己限定」であると述べている。「永遠の今」はここでの文脈で言うと「隠蔽空間」のことである。以下の引用は、「永遠の今」を「未発」、「時」「歴史」を「已発」と読み替えるとよくわかるだろう。

「永遠の今の自己限定として歴史は成立するのである。従って、歴史は単に過去から未来へ行くのみではない。けだし時はどこからでも始まり、歴史はどこからでも起こるからである」(『西田幾多郎講演集』, p.60)

西田によれば、永遠の今は、nowhere(どこにでもなく)・everywhere(どこにでもある)のだという。これは、自己限定の先端がどこにどのように収縮されるかによって、「隠蔽空間」(純粋持続)=「わたし」がいつどこでどのような形(「私」)であらわれるかはその都度場当たり的に決まる、ということであろう。
つまり、everywhere(どこにでもある)はnow-here(いま・ここ)でもあり、no-where(どこにもない)。この考察は心的外傷によるトラウマ、フラッシュバックの文脈としてそのまま読むことができるとおもう。

ちなみに、柴山さんは別の著作でも「隠蔽空間」で融通する分子状の世界をアニミズムや賢治の心象世界、安永先生の「ファントム空間」ゼロ距離地点と繋げて論じていて、おもしろい。私としてはそこにレヴィナス-西田を接続してみたいし、今日的な精神医学と人文知との接点(かつ、私が現実的に働きかけることが可能なスケール)を、この辺に見出せるのではないかとぼちぼち考えているのである。


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