雑感 『連続と断絶 ホワイトヘッドの哲学』

飯盛元章さんの「連続と断絶 ホワイトヘッドの哲学」を読んだ。

本書が面白いのは、表題の通り、ホワイトヘッド哲学の中心的なテーマとなる「連続性」の中にあえて「断絶」を見出して、くまなく張り巡らされた生成のネットワークを無理くり破ろうとするところである。

まず、あとがきで、「もともと筆者は、ホワイトヘッド形而上学において、存在者どうしが密接につながりあい、それらが宇宙規模の全体性をなしている点に対して、ある種の嫌悪感を抱いていた」と仰られている。
この感覚は、すごく共感できる。「嫌悪感」。。
本書の核となる「断絶」だが、根幹的な部分でこのザワザワするような嫌悪感が原点にあるのではないか。
構成としても、2章まではホワイトヘッド哲学の綿密な「連続性」に焦点を当て、関係性に吸収されるしかない窮屈さに読み手を追い込んだのち、3章からは逆にそうした体系を断ち切っていこうとする「断絶性」を模索する方針に視点を転回してゆくので、複雑に絡まり合った全体性の網に対し、大胆に裁ちバサミが入ってゆく感じが、読んでいて爽快なのである。

私はホワイトヘッドに関しては中村昇さんの解説書を読んだくらいなので正直全然詳しくない。しかし、「有機体の哲学」においては因縁による縁起の法則にも似た、事物同士の鮮やかな連続性という側面が持ち上げられがちなところに「嫌悪感」、要は「なんか知らんが生理的に嫌すぎる」と感じて、内部から切る動きに可能性を見出しているのはとてもおもしろい。
ハーマンが批判するように、ホワイトヘッドの宇宙は存在者同士が内的関係によって関係主義的に結びついていて、その全貌は〈抱握の束〉を敷き詰めた〈抱握の帝国〉にすぎず、あらゆる個体はそのなかに消化されてしまう。それは果たして本当に創造的といえるのか。

さらに、あとがきで飯盛さんは以下のように続けている。「この点(全体性に対する嫌悪感)に対してレヴィナスの議論をもちいて外側から批判を加えることによって、著者なりのバランスを保っていたのだ」(p308)

この直後に、レヴィナスによる〈同〉と〈他〉の分離はあくまで視野が人間に限られている点で十全ではない、とも書かれているけれど、生成の連鎖に不断に取り込まれてしまうことへの拒否感 (イヤさ、やめてくれ感)に対し、レヴィナスを導入することによってそこから脱出したいと思う気持ちは同感である。
全体性の生地に否応なく均質に折り込まれていって、「わたし」の細かな機微ははなから無かったことにされ、身動きが取れなくなる状態に、レヴィナスなら風穴を開けてくれる気がする、という直感があったのではないかと勝手に想像してしまうのである。また、生成の全体性は宇宙規模の運動であるとともに、個物存在の個的全体性を維持する内的活動でもあるとすると、このイヤさはレヴィナスの「倦怠感」のあの感じとも似ている。「私を不断に存在しなければならない」もとい「私を不断に生成しなければならない」という桎梏である。


「有機体の哲学」というと、なんとなく個物存在がそれぞれランダムで個性的な余剰を持っていて、いかようにでも全体を内部からふつふつと崩すような変な動きをしうる、その点で根本的に不安定なあり方をしているものだと思っていたが、本書を読んだ限り、その実態は極めてシステマティックであり、油断も隙もないものだった。

というのも、ホワイトヘッドの宇宙を織りなすオーガニックな連続性は、昆虫の大群が向性に従って光めがけてワサワサ進んでゆくさまや、ドミノに指先がわずかに触れた途端、牌が次々に倒れていってしまうのを呆然と見ている際の取り返しのつかなさ、あるいは、うっかり倒してしまったインク壺から溢れ出るインクが、白紙を端からみるみる真っ黒に染めてゆく情景を思わせた。そこには、個物存在が各々の生命性を発揮する小さくてささやかな営みの連鎖を愛おしむ余裕などなく、完璧にプログラムされた内容を機械的に走らせているだけのようであり、要するに「思ってたのと違い」、勝手に期待を寄せていた私は取り残された感じがしたのである。軽やかに新たなる事物の創造を展開していくはずが、箱を開けたら全ては創造の網の構成に引き込まれる出来レースであり、「創造的生成」という名の下での予定調和にすぎなかった。飯盛さんの論展開の巧みさもあって、そのような宇宙はつまらんと思った。思わされた。

こうした、めくるめく連続性の網が張り巡らされた宇宙から逃れる方策として、本書ではいくつかの「断絶」の道筋が提示されている。これこそが本書の肝である。

その一つに、同時的な存在者同士は互いに影響を与え合うことがないとする「因果的独立(causal independence)」と呼ばれる概念がある。
通常の契機が生成の過程を通じて合生(過去の事物を取り込んで存在を成り立たせる動き)を完了し、完結した自己存在として安定した瞬間、過去として次なる生成の基準に回収されてしまうのに対し、今まさに生成途中にある同時的な契機は、生成の作用因として利用されるだけの十分な実体をもたない。したがって、現在まさに生成を遂行中の契機同士は、全体性の網を形作る関係性の組成システムから免じられており、断絶しているとみなされる。このようなあり方は「生成のユニゾン」(unison of becoming 「なりつつあるもののユニゾン」。つくづくステキな表現だと思う)と呼ばれる。音楽でいうユニゾンのように、自己創造の運動が同期しているのである。

「そこにはまだ、与件として他の契機に介入していく決定された自己自身がないのである。…〈生成のユニゾン〉にある契機どうしは、自らを創造することに没頭していて、互いに対して無関心なのだ」(p205, 強調筆者) 

自らを創造することに夢中で、よそに構っていられない。それどころではない。これは例えば、同じ一つの存在者を形作っていても、「私」「私の影」はぴったりと張り付いて、違いを対象として扱うことができないという点で、独立していることと似ているのではないか(まさに「死角」である)。
しかし、ここでも問題がある。それは、空間的に近接した事物同士では第三の因子を媒介して、間接的に両者を内在させ、結局のところ内部で関係しあってしまうということだ。同時的契機AとBの共通の過去Cが、結局両者を接続してしまうのである。

例えば、「私」と「私の影」の例でいえば、「私の身体を特定の具合に動かした」という両者の成立に共通する過去契機が両者を媒介するといえるだろうか。
そして、この状況を回避するためには、各契機同士を互いに影響しようがないほど空間的に極限まで離すことによって、限りなく純粋に因果的独立を確保できるのだという。
私は、ここの話題の前半をいいなと思いつつも、問題に直面してからの後半部分でいまいち納得がいかない。なぜなら、どのくらい距離を取れば間接的な影響を除去できるのか明らかになっていないし、そもそも多くの場合、個人の中で具体的に問題になるのはある程度近接した事物同士の関係性になると思われるからだ。
私は、「前の瞬間の私」と「今の瞬間の私」「次の瞬間の私」といった、どうしても空間的にも時間的にも離すことができない同士が連続性の公式に絡め取られてしまうのが嫌だからこそ、そこからの抜け穴を模索したいのであって、「数億光年隔てた星の微粒子の位置関係」「今日食べた塩鮭の分子構造」の断絶の強さとかは、いかに純粋に無関係であろうとどうでもよい。よって、空間的に隔絶すれば共有する過去が生じ得なくなるという説明は、本質的に知りたいことから微妙にずらされたような感じがするのだ。

本書で取り上げられる断絶の仕方は大きく3種類ある。「因果的独立」のほかにも、時間的に非常に離れた未来において、現行のものとは全く異質な宇宙時代が存在するという水平的なあり方の「通時的断絶」、そして「垂直的断絶」と呼ばれる、あらゆる宇宙時代の根底に横たわる元型的な根底的社会との断絶が示されている。
これらの断絶のあり方を図式化したものを、以下に引用しておく。

p254より引用

「根底的社会」との断絶は以下のように説明される。

「この根底的社会は延長的結合というひじょうに一般的な特徴のみを有している。それは、特徴化された秩序を欠いているため、ほとんどただの混沌状態でしかないかのような社会である。私たちの足元には、常にこうした闇があるのだ」(p253, 強調筆者)

私としては、3種類の断絶形式のなかでは根底的社会に基礎付けられた垂直的断絶が一番「桁違い」な感じがして興味をひかれるが、一つ気になるところがある。
それは、飯盛さんがこの断絶を「闇」と表している点である。
「闇」という表現には、まっくら、なんもない、つまり無の深淵を想定していることを伺わせる。本書で用いられている比喩によれば、第2の断絶は、現在の我々からは決して捉えることが不可能な形式の光を発しているという意味での断絶であるとされる(環世界のような)。そして第3の断絶は、「光の不在による断絶」なのだという。

垂直的断絶は、光の不在による断絶である。あらゆる宇宙時代を包摂する根底的社会には、特殊化された特徴が欠けている。つまり、それは闇であり、光にとっての他者である。まさにそれゆえに、わたしたちにとって捉えられることがないのだ。垂直的断絶は、闇による断絶であるといえる」(p254, 強調筆者)

ここでの「光」はもちろん、存在者を照らし出し、世界を遍く存在せしめる「光あれ」というロゴス的な創造の起源の意味が込められているだろうが、そうだとしても、すぐさま「闇」に転ずるのはあまり釈然としない。

それというのも、私はこれを読んで、「光の三原色」のことを想起した。赤、青、緑の光を重ねると、明るさが乗算され、「白」に見えるという性質である。それは、光がないのではなく、光がありすぎてパッと飛ぶ(ホワイトアウトする)というイメージである。
根底的世界には、一才の特殊性がない。しかし、それは特殊性としての色素が存在論的に「ない」という意味ではなくて、認識論的に「捉えられない」ということなのではないか。色とりどりの光が互いを隠蔽しあっているため、そこには一見「何もない」にように思われるが、実はカラフルな光が充満しており、「赤」や「青」という個々の特殊性として現れることができないということなのではないだろうか。そのように考えると、最後の砦のように思われた「垂直的断絶」も、連続性を断ち切る手札としては弱いような気がしてくる。

ホワイトヘッドは『過程と実在』において、自ら尽力してきた「諸事物の本性のうちの深みを探る努力」(p259)の脆弱さや不完全さを嘆いている。
整合的な「有機体の哲学」には限界があり、諸事物の深みには決して及ばない。むしろ、せっかく構築した体系の改変と修正を迫ってくるのが「深み」なのである。

これに応えるような形で、本書では「第4の断絶」が示されている。それは「実在の深み」という断絶である。これは要約すれば、有機体の哲学の合理的体系を根底的に解体し、転覆する力動で、いわば「これまでのできごと」をそのまま括弧に入れて括る「夢オチ」の権威のようなものだ。あるいは、「ドッキリ大成功」の看板でもいい。そのくらいの、全てを台無しにする破壊力である。
それほどまでに法外な力を想定しないことには、宇宙の連続性に穴を開けることはできないのだということか。

初めはあくまで、食卓という定まった範囲の中で全体性を解くほぐすことを試行錯誤していたつもりが、最終的にはそのフィールドもろとも「ちゃぶ台返し」する。そうすることによって、連続性の体系は解消されたかもしれないが、食卓に並んでいた料理やら食器やらは粉々に霧散してしまった。
そのような、やりかたの荒っぽさには思わず「結局そうなるのかい」と呆気に取られてしまうようなところもあり、一方で、全体性を木っ端微塵に打破する「外部」とはそのような徹底的に異質なエネルギーの貫通なのかとしみじみ思ったり、あるいは、それこそ「深み」というからには、内側から突き上げる余剰が他なる力のようにして働いているのだろうかなどと考えたり、釈然としないながらも、色々考えることがあっておもしろい。
私も、「連続性」の波に飲まれながらも、内在的に「断絶」の可能性を探ることで抵抗表明しつつ、ホワイトヘッドを読みたいと思うのであった。


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