見出し画像

ミスドでいちばんノーマルなやつ

中村雄二郎『共通感覚論』を読んでいて、「常識」について面白い点があったのですこし。

認識を制限しながら開く、フィールドとしての共通感覚を考えるにあたって、「常識」(コモン・センス)についての考察がなされる。
ここでは、戸坂潤『〈常識〉の分析』が取り上げられる。これによれば、「常識」は「内容としての常識」「水準としての常識」にわけて考えるべきという。

前者の、内容としての常識とは、個々の知識や現象の総和を取った平均値である。これは、単なる知識水準に過ぎず、独自性を持ち、基準となるような「常識水準」には発展しない。対して、水準としての常識は「固有の尺度を持ったもの」(中村,2000,p17)であり「水準値であることがそのまま標準的であり理想的」な性質のものである。例えば、「健全」であるということ。これは、国民全員の健康と病気の総平均から導かれた状態を指すのではない。「各人の健康状態の標準のことであり、理想のこと」(p18)を示している。
水準値としての常識、つまり健全であることとは、過不足なく健康な状態であり、0地点であるがゆえに意識されない理想のような状態を意味する。
実現不可能だが、実際の全国民の健康状態をデータ化し平均を出したとしてそれはおそらく完全無欠な健全ではない。まずそもそも、そういうことではない。
水準としての常識が我々にとっての目指すべき理想であるがゆえに、「ノーマル(ノルム的・規範的)な常態」といえるのである。

このことを、ミスドのドーナツで考えてみる。
一般的に考えられるミスドのドーナツで、最も「ノーマル」な商品とはなんだろうか。
満場一致とは行かないまでも、結構な割合で「オールドファッション」と答える人が多いのではないだろうか。
オールドファッション、昔気質という名前を持つ、この上なくシンプルなこのドーナツこそ、ミスドにおける「水準としての常識」であり「ノーマル」、他のドーナツの規範なのではないか。
おそらく、その他のバラエティ豊かなドーナツの総和を全体数で割っても、オールドファッションは生み出されない。
(ポンデリング+ハニーチュロ+フレンチクルーラー+…Xn)÷n=はオールドファッションのように硬派で整然としたものではなく、もっとボヤッとして中途半端な、ドーナツと言えるかさえ怪しい微妙なドーナツであろう。

このようにして、ミスドにおける「水準としての常識」を担うオールドファッションだが、これは「ドーナツとはかくあるべし」という風に他のドーナツを牽制しながらも、その規範性の中で新たなるドーナツの可能性を生む懐の広さをもっている。このことは、郡司ペギオ幸夫氏の提唱した「オープンリミット」の概念と通じるところがあるように思われる。

オープンリミットとは、その名の通り「開きながら制限するもの」である。詳しくは、郡司氏の『生きていることの科学』に説明があるが、この本の中では「消失点」がオープンリミットの例として示されている。
これについて、大中小の人間が白い平面の中で横に並んでいるイラストを想像してほしい。これだけでは、人物の位置関係は平面的で、遠近感は働かない。したがって、我々はものの大小を見たとおりに認識する。「巨人と、人間と、妖精の絵かな?」というぐあいに。しかし、人物の右端に、消失点・を設定すると、途端に透視図法が機能する。「手前から奥にかけて、遠くに人がいるんだな」というように、遠近感をもって平面図式を見ることができるようになるのだ。ここで、消失点をおいたことによって、遠近感という見方が新たに開かれたと同時に、その場であるべき見方が一定に定められている。こうした状態を、郡司氏はオープンリミットと呼んでいる。

オープンリミットの例は数え切れないほどある。中村氏の本でも、「芸術の鑑賞」という出来事を例に、共通感覚の水面下での働きを指摘していた。
これについて論じた部分を引用すると、「美術の展覧会場とは、一種の聖化され、聖別された神聖な空間である。そのかぎり、出来、不出来は別として芸術を見る目で眺められることが保証される。」(p27)として、そうした暗黙の了解は〈場としての約束事〉とよばれる。だから、この束縛構造を見抜いたうえであえて展覧会場に男子便器を展示したデュシャンは「場違い」であると叩かれたのだと。これも、「オープンリミット」の一例と言えよう。

再びミスドの例に戻る。すると、「水準としての常識」であるオールドファッションは、理想的なドーナツ像を制限しながらも、日々新たなるドーナツ現象を開拓しているという点でオープンリミットであることがわかる。
ドーナツを擬人化するようだが、例えばポンデリングやフレンチクルーラーは「でなかった側」の凡ドーナツであり、ノーマルでありノルム(規範)の孤高・オールドファッションの影を追うものでしかない。オールドファッションが内在する「ドーナツとはかくあるべし」、具体的には穴が空いていて、油で揚げて、素朴で幸せな3時のおやつ…というようなノルムから逸脱することができない(リミット)。しかし、同時に、モチモチだとか捩ってみるとか焼いてみようなど、各ドーナツは制限がある中でそれぞれの振り幅を最大限に生かしている(オープン)。したがって凡ドーナツたちは「常識」というくくりで捉えられながらも、その実態は「理想」であるオールドファッションを常に意識しながら、研鑽を積んでいるのである。そしてこれは、ドーナツに限った話ではない。我々人間の社会でも言えることだと思うのである。

ポンデリングやハニーチュロは決してオールドファッションになれない。常識を履き違えることは、自分を苦しめる。そのためにも、「常識」の本質を見極めなければならない。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?