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遊び心で文章を(書く日もある)

1月に入ってから、毎日noteを書いている。どことなく、調子がいい。

「自分の言葉を書く」を続けると、脳みその引き出しから言葉を取り出すのが上手になる、気がする。あたまの中に小人がいて、記憶や感情に合わせて言葉をパッと見つけ出してくれる。そんなイメージだ。

呼吸するように使える母語だって、意識して吸う・吐くを繰り返せば、たどたどしく話していた外国語が滑らかに口から出るように、言葉の通り道は豊かに強化されていくのだと思う。

きっと使うほどに仲良くなれるだろう、ぐらいに考えている。ソースは特にない。

毎日書くのは、なんかいい。

なにがいいって、書くチャンスが1か月に約30回あるから、どんな些細な出来事でも書けることだ。(ただし、仕事と生活のバランスが崩れない場合においてに限る)

私の場合、間隔があくと、どうも「これを書くぞ!」と気負ってしまう傾向がある。それがダメなわけではなくて。ただ私は、書く気持ちのハードルを低くしたい。

ぐっすり寝て目が覚めた翌朝には、きれいに忘れさられるような心の動きや目にした景色を、書き留めておきたい。うん、超絶な自己満足だ。

書くチャンスが多いから、文体を変えて書く自由を少しばかり楽しめるのもいい。

昨日更新した「夜更かし」がテーマのエッセイは、いつも読みに来てくれるマリナ油森氏が、いち早く文体の変化にコメントをくれた。


そうです。遊び心満載で書いた。

「砂糖菓子とミルクティー」みたいなロマンティックな文体がいい!という気持ちで書き始めた(意味は不明)。リズム感重視で、情景描写が詩的になるイメージに。


どんな文体で書きたいか、明確にあるわけではない。その日に聞いていた音楽や、読んでいた本に気持ちは左右される。

Spotifyで「ヨルシカ」の音楽を聴きまくった日に書いた日記。内容は子育てエッセイでも書ける題材を、どことなく絵本みたいな情景を切り取って。


1日1記事。緑のボタンを押して公開するごとに、言葉の海は深い、なんて思う。

ここまで書いてふと思ったけれど、自分では変えているつもりの文体も、実のところいつもの文章とあまり違いがないのかもしれない。そうだったら、残念だし恥ずかしいけれど、力量不足だなあとため息ついて己の文章力とひたと向き合うしかない。


外に一歩でると、眼鏡を外されたような英語の世界にいる。自由にもぐって息継ぎできる日本語の海が、ずっとずっと魅力的に思える。

言葉ひとつで。空に虹の花を咲かせ、雪の粉が舞い、一瞬と永遠を抱え、天使も悪魔も金平糖の精も存在する、見たことのない世界に連れて行ってくれる文章は、どこまでも奥行きがある。想像力で表現の限界点を超える文章に憧れる。

文字を選ぶ視点を3ミリずらしてみたら、どんな文章が出てくるのかしら、なんて、遊び心からはじまって書く日もある。

「え、そんなんでいいの?」って言う人もいるかもしれないけれど。

だってここはnoteだもの。好きなことを、好きな文章で書いていく。それがすべてで、はじまりだと思う。


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